Literary Machine Nº9

文学と音楽、ロンドンの陸地で溺れる税理士

上司ガチャにハズレた部下を救えなかった話

部下の退職が決まった。上司ガチャのハズレによって、職場に適応できなかった。

彼女は私の直接の部下ではないから、私はガチャのハズレには含まれていないと宣言しておきたいところである。しかし適応は、職場環境からの絶えざるフィードバックに耐え切れるかという問題だ。とすれば、私もこの職場にいる以上ハズレの一味たるを免れないであろう。おそらく、この問題に対処するに当たって重要な出発点は、職場の責任を認めることだ。そして、自分の無力さをも。

さて、あまり詳細に書きすぎると差し支えるから、この上司と部下の間で起こった出来事について適宜ぼかして書く。仮に上司を田中、部下をマキコとする。

まず、憔悴したマキコさん当人からしか事情を聴いていない点は容赦されたい。味方が誰もいない(と本人が感じていた)ため、僕は客観・中立的な立場よりはマキコさんをサポートする役割に徹するべきと判断した。また、この問題には多少なりとも義憤を感じているから、当初よりもかなり気分が落ち着いたとはいえ、叙述には強いバイアスがかかっていることは否定できない。

ヒアリング内容等からの構成

マキコさんが転職してきたのはこの一年内である。マキコさんの成長と人事評価に責任を有するキャリアコーチには、田中さんが任命された。田中さんとマキコさんは業務のアサインメントで一緒になることも多く、この組み合わせは全く自然なものだった。

しかし、マキコさんの入社早々に二人の関係に亀裂が入ることになる。入社月の初回1on1で二人が個室で話していると、特定の共通クライアントに関する話題になった。田中さんはこの業務についてマキコさんに期待するところが大きかったから、業務に必要なテクニカルスキルへと話題が派生した。次第にこれこれの条項は知っているか、あれはどうだという審問の様相を呈してきた。マキコさんが困惑しながら回答していると、田中さんはしびれを切らしてこう漏らした。

「こんなことも知らないで〇〇の案件大丈夫!?」

「そういわれても前提の情報が足りないので答えられません」

さすがに堪えきれず、マキコさんが少し言い返すような態度を取ったところ、田中さんは激高してしまった。

マキコさんは、まさかそれほどの感情的な叱責を浴びるとは思っていなかったから、まずは驚愕した。それから、毎月の1on1で密室に二人きりになるのが怖いと感じるようになった。ある日、いつもの通り苦痛の1on1が終わって個室を出ると、近くにいた他部署の人が話しかけてきた。何を言っているかは聞こえなかったものの、激しい話し声で叱責されているようで心配になったので……とのことだった。

マキコさんは、初回に余計な反論をしたことが田中さんを白熱させた原因だったのではないかと考えて、1on1で何を質問されてもできる限り沈黙を貫くようにしてみた。そうすると、言い合いに発展することはなくなったが、「そんな黙っているようではダメ」というような指摘など、別のやり方でチクチク刺してくる。田中さんがマキコさんに関してネガティブな指摘をした後に、誰とは伝えず「これは他の人も言っていたよ」と付け加えるようなこともあった。マキコさんがまだ知りもしない他の同僚や上司達に対する不満を聞かされることもあった。

なお、田中さんには業務関連の連絡をする際に、電話・チャット・メール等をふんだんに駆使して部下を執拗に追いかける習性があるのだが、業務はそもそも当然の義務だから、これはまだ耐えられる。それでも、田中さんからの連絡が来る夢を見て深夜に焦って起きるなどプライベートの時間も浸食されてしまった。そして、精神的な攻撃に晒される1on1の時間はひたすら地獄のように辛かった。

マキコさんは社内で本来最も信頼すべき人物に傷つけられて、他の人達が自分のことを悪く言っているかもしれないという疑心暗鬼を生じて、孤立無援に陥った。

転職から一か月もしないうちに彼女の頭には、退職という単語が浮かんでいた。

相談を受けてから

僕がこれらの事情を聞くことになった経緯は単なる偶然だった。業務のためのミーティングをしていたときに明らかにマキコさんの様子がおかしかったため、少しずつ事情を聞いてみたところ、直前に田中さんから1on1でひどいことを言われて泣いてしまったらしく、感情の制御ができていなかった。即座に対応しなければ最悪の事態に至るほどの緊急性はなさそうに見えたが、強烈な不安状態にあることは分かった。田中さんへの直談判どころか、大事になるのを避けたがっていたので、「今は誰も信じられない状態だと思うので、あなたが良いと言わない限り、この話は誰にも伝えない」と言って、その後も何度か状況を改善するための話し合いを持つことになった。

日頃田中さんは周囲にも「マキコさんがうちに来てくれて助かる」というようなことを漏らしていたから、部下への期待値が高すぎて指導が過熱したケースではないかと思われた。僕がまだ本件について知る前に、同僚達と田中さんを話題にすることがあったが、部下を愛して育成にも熱心であることと、育成が他に類を見ないほど下手で不器用なことについて皆の意見が一致した。そもそも、過去にも新人の女性を数人退職させてきたという「伝説」がある人だった……。それでも、最近は大分落ち着いてきたという評判だったのだ。

口外を避けなければならなかったから、部門長に相談することもできない。そこで、事を荒立てずに何とか田中さんとの1on1を平和なものにできないかという穏当な対応策を考えてみて、一応の方向性が決まった。その翌月くらいに話しかけて様子を訊くと、「平気です」と笑う。あまりに素っ気ない反応で拍子抜けした*1。後で分かったことだが、とある第三者から釘を刺されて周囲にこれ以上相談できないという心理状況になっていたようだ。

しかし、僕は多少は状況が改善されたのだろうと納得し、その頃は既に繁忙期に突入していたこともあって、こまめに彼女を追跡するようなことはしなかった。そのうちに一か月半ほど経って、再びマキコさんからの相談を受けたときには、退職したいが田中さんさんには退職の話などできようもないから、サポートしてくれということだった。

ここに至って彼女の退職の意思を部門長に伝えつつ、部門長とも一緒に何度か面談をしたが、その決断は揺るがなかった。本人が振り返って曰く、コーチとの相性が悪く、職場に適応できなかったのが原因だと。他者を責めないのは「大人」な考え方だとも思うが、今は冷静な判断ができていないのかもしれない。自分を責めるような発想だと退職後の回復にも時間がかかるのではないかなどと、素人ながら想像する。

僕は何度か面談をしながら、彼女を救ける術がないだろうかと思案したわけだが、正直最適解の行動を取れていたとは思われず、未だに暗闇に立ち尽くしている。書籍やネットを当ったところ、適応障害等の医師の診断が前提になっているものか、診断が出てからどう行動すべきかというアドバイスが多かった。心を負傷した部下に対して、前線でどうやって応急処置を施すかという具体的な指針にはなりそうになかった。だが、この種の問題はどこにでもあるだろうから、きっと参考となる情報もあるはずで、僕の探し方が悪かったに違いない。

僕のなかで整理がしきれておらず、ここから先の反省はまだ完了していない。今思っていることや感じることをラフな箇条書きにしておく。

  • 新入社員や転職者は、彼らの存在を承認しながら育成しないといけない。コーチは技術的なトレーニングをしたくとも我慢して、まず彼らの心理的安全性を確保し、互いに信頼関係を築くことを重視すべき
  • 疑心暗鬼になっているマキコさんに対して誰にも口外しないと約束し、それを守った点は彼女の安心材料になったとは思う。ただし、そのために上長を巻き込んだ改善策を図れなかったので、正解だったかは分からない
  • 多分に主観が絡むトピックだし、一面的な話しか聞いていないので、マキコさんにも何かしらの落ち度があった可能性は十分にある。上記が被害妄想ということもないとはいえない。この点はマキコさんの退職後に田中さんに尋ねる機会があろう
  • この手の理不尽が起こったときには、「被害者」に寄り添いつつ、この理不尽さを問題視する態度を示すことが重要だが、我々は精神科医などのプロフェッショナルではないから、メンタルが関わる問題には入り込みすぎてもいけないし、現場だけで解決できるものではない
  • とはいえ職場環境に問題がある場合には、現場で対応した方が被害を抑えられるケースが多いのも事実だろう。この手の問題を放置又は容認している職場全体、とりわけManager(管理職)以上に責任がある(すなわち、僕にも責任がある)
  • (会社や医師により)パワハラだとか適応障害だと認定されていない今回のようなケースでは、程度の差こそあれ心的外傷を受けた人にどう応対してサポートするかということを考えるアプローチが良いのではないか
  • 上司と部下の問題の場合、上司の立場・業績・役割・能力が評価されてしまい問題解決が難しくなる。これに対してまだパフォーマンスを発揮できていない新人は常に過小評価されて分が悪い。「この人が20年いてくれたらあの人を超える貢献をしてくれるだろうから守らなくては」というような比較衡量は期待できない。現時点での貢献度で測定されてしまう。そしてメンタルの強さへの評価も決定的な重しとして、この秤に載せられる

*1:そもそもこの暴露を受ける前から、マキコさんとのコミュニケーションには、どこか核心に辿りつけないような、本当に内容を理解して応答しているのか不安になるような謎の違和感があったが、今振り返ると防御反応のような硬直性のために会話がぎこちなくなっていたのだろうと思う。

12 May 2023, らちちから

ゴールデンウィークが終わるたび、墓場に還る気持ちになる。墓場で休まるのではなく、既に死せる自分自身を埋めるために働くのだ。そんな墓堀りじみた労働の最中に、とあるクライアントにかなり悩まされている。勿論詳細は明かせないが、女性のヒステリアは度し難いとだけ書いておきたい。死んだ体で生きるのと、生きた体で死ぬるのと、どちらが良いか。

人生の儚さといえば、良知力(らちちから)という社会思想史家がいた。名前は変てこだが美しいエッセイを書いた人だ。1985年に癌で亡くなっている。「春と猫塚」というエッセイしか読んだことがないが、人が人生の終焉をこめかみに突きつけられたときの魂の震動が、あらゆる瞬間を大切にすることの重要性を美しく思い出させてくれる。

このエッセイを要約すると、愛猫ぺぺが死んでしまった直後に癌で余命宣告されるという身も蓋もない話だが、さすがに哲学を学んできた人物らしく、本人は冷静に状況を捉えて「死ぬまで生きるだけの話である」と言う。この淡い平静の下に揺らめく悲哀と愛猫や妻子への愛情が読んでいてつらい。だが、微妙な美しさが痛みを上回る。

彼は、まもなく死ぬであろう自分を見つめながら、「もう後にさがる余地はない。不可逆的なときの流れにあえて逆らうという絶望的な構えが残されているだけだ」と語る。

ペペは美人だった姿のままで家族に記憶されている。ペペの墓の前で良知がつい、「もう骸骨になっちまったかな」と言うと妻は憤然、「ペペはちゃんと元のまま、生まれたときと同じ可愛い顔をして眠っていますよ!」と答える。

月並な感想だが、人生は長さではなく、どのように生きるかが重要だということ。だが、人生の限られた長さを余りにも容易に放擲していないだろうかということを自分に問い直すこと。人生が終わらんとする間際になって人間はようやく人生をまともに見つめられるのだという滑稽さを胸に、「ときの流れにあえて逆ら」い続けてみたい。

English

Whenever Golden Week ends, I feel like returning to the graveyard. Instead of resting there, I work hard, burying my already dead body. In the midst of this undertaker-like labour, a particular client has been troubling me these past few days. I cannot reveal the details, but I will say that dealing with female hysteria is difficult. Which is better: living in a dead body or being dead in a lively body?

Speaking of the transience of life, there was a social historian named Chikara Rachi who had an eccentric name but wrote a beautiful essay. He passed away from cancer in 1985. I have only read one of his essays titled "Spring and Cat Mound," but the soul's tremor when a person is faced with the end of life reminds us beautifully of the importance of cherishing every moment.

In summary, the essay tells the story of Rachi being diagnosed with cancer shortly after his beloved cat Pepe died. However, as expected of someone who studied philosophy, Rachi calmly reflects on his situation and says, "It's just a story of living until you die." The sadness and love for his beloved cat, wife, and daughter that flicker under this calmness are painful to read, but the subtle beauty outweighs the pain.

As Rachi reflects on his mortality, he writes, “There is no room for going back anymore. Only a desperate stance of going against the irreversible flow of time remains.”

Pepe is remembered by his family as a beautiful cat. When Rachi stands in front of Pepe's grave and says, "I wonder if she's become a mere skeleton by now," his wife angrily replies, "Pepe is sleeping with the same cute face she had when she was born!"

It may be a cliché, but what is important in life is not its length but how you live it. However, it is important to ask yourself whether you are not too easily wasting the limited length of your life. With the absurdity that humans can only truly reflect on their life at its very end, I want to keep "going against the flow of time" as long as possible.

5 May 2023, 学習について

学習、練習、努力、勉強。

これらを考えるとき、僕らはどうしても目的に向けられた手段としてみてしまいがちだ。

テクニカルスキルというもの

例えば、税理士という職業の場合、実体法たる法人税法相続税法等の法令の理解はもとより、国税庁の法令解釈通達を知らねば実務はままならないし、簿記会計が分からなくては仕訳が理解できない。租税法がよって立つ経済取引や事象という事実関係はまず法的に解釈されなければならないから、民法会社法の基礎的な知識がなくては困ることは多い。

これらは程度の差こそあれ、どんな税理士にも共通して要求されるテクニカルスキルだと思われる。各人のプロフェッショナリズムはその専門分野によって、組織再編、事業承継、移転価格、国際税務その他の領域に展開されていく。クライアントに応じて、業種・業界の特徴やビジネスそのものに対する理解と固有の論点についても知見が求められる。

もちろん求められるのはテクニカルスキルのほかにも夥しい。当然、職業が変われば求められるスキルはまったく異なる。ここではそういったスキルそのものではなく、スキルの学習や習得について考えてみたい。

まずは税理士試験の勉強から。試験勉強というのは非常に単純だ。というのも、目的と手段が明確だからで、ただ試験に合格するためだけに勉強する。だからこそ試験に受かるために合理的・能率的な勉強をしなければいけないし、それ以外のすべては目的に反する障碍でしかない。友人、恋人、家族との触れ合いや飲み会だとか趣味の時間だとかは、試験合格という目的からすれば捨て去るべきものであって、ゴミ同然の価値しかない。

「好きなこと」を数年間我慢する――これは通常人にとっては苦痛そのものかもしれないが、ある種の人にとっては特段苦痛とはならない。この人工的な試験制度というものが、目的・手段(学習)・結果が自然界に反するほど明確に定義づけられているために、むしろ知的なゲームを楽しむかのごとく乗り越えられるのだ。これは税理士試験のみならず大学受験などどんな試験でも同じことだ。

さて、めでたく税理士試験を迂回・通過すると、今度は学習の目的が少しばかり変容する。税理士がなぜ勉強しなければならないのか。それはより良い税理士になるためだ。より良い税理士というのは抽象的なのでいくつか例示すると、クライアントからの信頼を得る、より複雑な業務をこなせるようになる、より高度な案件を処理して稼げるようになる、無理解によって生ずる誤りによる賠償リスクを避けたいなどさまざまな思惑があろう。

目的と手段を結びつける

ここで疑問に思う、試験勉強のように明確な牽連関係が埋め込まれていないとき、手段と目的が結びつくためには何が必要なのだろう。テクニカルスキルの習得とその人が得る収入との間に比例的な因果関係がなければならないのか。*1その前提条件は不要だろう。

「より優れたプロフェッショナル」になるために学習しなければならないとしたら、胸裡にそう信じているとしたら、それだけで目的と手段は安らかに接続したといえるのではないか。目的を果たせると信じて努力でき、何らかの成果が得られるのならばそれで十分だ。

実利を超えて

これまでに述べてきたのはすべて「実利的な必要性」に基づく態度だ。実利によって楼閣を築き上げて、目的を果たそうというような……。そして、ビジネスの世界は常にこの実利主義に支配されている。

しかし、目的を持たない学習や練習も重要だ。たとえば、趣味で楽器を演奏することや、絵を描くことなど、自己成長やクリエイティブな活動も人生に彩りを与えてくれる。自分自身をより深く理解し、自己表現の能力を高めることができる。

もっと純粋にこの世界を楽しむとか好奇心に駆られてというような生き方を、死ぬまできちんと継続したい。そんな思いがする。日々を生きることによって日々自己が実現されていく人生。何らのマイルストーンも要求せず、どこかある一点で人生が好転したり変節することを期待して心を焦がし続けるのは辛い。志は有ちながらも、日々の楽しみと創造性をなくさないようにしたいと思う。

この本の1. 「みどりのパントマイム」から着想。

*1:テクニカルスキルを磨いたところで売上や給与は増えず、稼げないだろうという指摘は無視するとして。

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4 May 2023,

トー横

少し前に話題になった歌舞伎町のジェンダーレストイレが今やパパ活に使われているというニュースを見て、不謹慎ながら笑ってしまった。人間というのはたくましい。とりわけトー横キッズと呼ばれる若者たちの生態はなかなかタフでことごとくrawな。

道傍を歩いているとアスファルトの隙間に雑草が美しい花を咲かせていて「こんなところによく」と感じ入ることがあるけれども、新宿のあんなところに少年少女の暴力と売春の枝葉が過激に伸びて小さなスラムが自生するに至ったというのは、何とも奇妙だ。

トランス

最近トランスの人たちのニュースが国内外で話題だが、丁度こんな動画を観た。動画自体は2年前のもので、40分近くある。要旨は、哲学Youtuberとして7年活動してきた男性がずっとトランスだったということをカムアウトする動画だ。 www.youtube.com

内容はさておき、以下の台詞が印象的だった。

...remembering something is an act of interpretation. And that makes me wonder if you remembered things from your life, what if your interpretation of that thing has changed? Would that make you a different person?

日本語訳:
何かを思い出すということは、解釈するという行為だ。とすると、もしあなたが自分の人生のものごとを何か思い出したときに、そのものごとに対する解釈が変わっていたとしたら。あなたは別人になってしまうのか。

これは発言のコンテクストを踏まえると、これまで男性として生きて経験してきたものごとに対する解釈が女性としての見方に変わっていたらという問題提起だと思う。

過去は自由に解釈の対象となる。シナプスが頼りないせいで記憶は徐々にフェードしていくが、記憶の一義的な参照先はあくまでも過去の事実だ。しかし事実には評価や解釈が手垢のようにこびりついて、いつのまにか記憶と合一化して、記憶されるべきものへと還元されている。僕らが昨日の自分、いや究極的には一秒前の自分、と同じ人間だと思うためにはこの合成記憶が欠かせない。だからこそ、この合成記憶は私が唯一無二の私である証跡なのだ。しかし、久しぶりに記憶を参照したときの解釈がまるで違うものになってしまっていたら、アイデンティティの足場は揺らいでしまう……。

過去と未来の狭間

さて徳冨蘆花の『謀叛論』に収録されている「眼を開け」。明治39年に青山学院で蘆花が行った講演だから、明治44年の「謀叛論」以前の話だ。 shivalak.hatenablog.com

蘆花が引用する詩がある。陳子昂という唐代の詩人の「幽州台に登る歌」から、「前に古人を見ず後に来者を見ず独り愴然として涙下る」と引いている。この詩人は18歳まで無頼の徒だったのが発奮して進士にまでなったという。すなわち、トー横キッズが心を入れ替えて国家公務員になったようなものだな。詩の原文は、

登幽州臺歌
前不見古人,後不見來者。
念天地之悠悠,獨愴然而涕下。

私は過去の賢者を見ることができず、将来の英雄を見ることもできない。過去や未来の人からもまた、私は見えない。私に見えるのは、すべて今のみ。壇上に登って遠くを眺めても、広大な宇宙と空と大地しか見えない。どうしても寂しくて寂しくて仕方がない。ぴえん。

蘆花はこの詩から発進して、詩人のメランコリーと孤独に共感しながらも「思うに我々はトモすると過去とは夢のごときものであるかのように考えますけれども、いずくんぞ知らん今日厳然として生ているのでございます」と云う。そう、上に見たように人は己の過去を解釈し続けることができるけれども、何も自己の過去に限らねばならない法はない。

「静かに顧みて吾胸中に古人ありと思うならば、我もまた将来に人の胸中に生くべきものではありますまいか」

この力技の展開は浪漫があって心を拍たれた。

おれが過去の人々に想いを到すとき、人々は現世において再生され、その声を聴くことができる。そうして、いまこの胸中に人々が生きていることは、おれもまたまだ見ぬ人の胸中に生きうることを意味するのだ。

そう考えてみると、我々は「実に長命」なのだ。物理的な生命は長くて百歳だが、なぜそんなものに拘泥するのか、というような蘆花の声が聴こえてくる。過去と未来から切り離され、その狭間で、参照先もなく参照元ともならない絶望を胸にいだき、かぼそい刹那の綱渡りをする孤独な人々を、蘆花は激励しているのだ。だが、その蘆花自身も孤独な人であったに違いない。

3 May 2023,

ここ数日のブームが幸徳秋水である。というと社会主義者にでもなったのかと思われるかもしれないが、それほど深い理由はない。たまたまこの4月に岩波文庫幸徳秋水の書いた中江兆民の評伝をreissueしていたから手にとったわけだ。それにしても最近は「読書ができている」。UKでくすぶっていた昨年もこのくらいの時期に読書熱が大いに湧いたのだが、安倍元首相の事件を機に、あの究極的な現実でありむしろ超現実のようにも思われる出来事に衝撃を受けたあまり、懐の本を落としてしまってその後沙汰がなかった。その点で、ようやく生き還った心地がする。

だが、今日記したいのは「兆民先生」ではなく、むしろ連鎖的に読んだ徳冨蘆花の「謀叛論」なのだ。

いわゆる大逆事件(幸徳事件)で幸徳秋水ら12名が処刑されたのは明治44年1月24日だった。この事件を受けて、蘆花はわずか8日後である2月1日に旧一高で公演を行ったが、「謀叛論」はその草稿である。現代におけるこの事件の評価は、幸徳らを処刑したかった官憲によるでっちあげらしいが、当時懐疑する者がいたとしても、事件や判決について何か言論することすら憚られるような恐ろしい空気が醸されていたらしい。

そんななか蘆花は彼らの助命を天皇に嘆願する上奏文(本書に併録されている)を書き、処刑後にはこの公演で処刑すべきでなかった由を滔々と語る。彼らは「ただの賊ではない、志士である」からその志を憐れんで死刑にすべきでなく、天皇の寛仁による恩赦によってせめて命は宥し給うべきところを殺してしまった、と。これでは無数の無政府主義者の種子が蒔かれてしまった。当局者は幸徳らの躰を滅することで「無政府主義者を殺し得たつもりでいる。」

しかし、「幸徳らは死ぬるどころか活潑潑地に生きている。現に武蔵野の片隅に寝ていたかくいう僕を曳きずって来て、ここに永生不滅の証拠を見せている。」

理路整然と処刑が悪手であると述べながらも、調子は漸々激越となって、情動が迸るようである。なんと血気盛んな。終いには聴衆に対して「自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。」とか、「我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀叛しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して。」聴衆の一高生たちを大いに奮い立たせたであろう。

そうして結句は以下である。

要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研くことを怠ってはならぬ。

無論これらは修辞とか比喩を多く含んでいて、いわば反撥的に過激に鋭利な言葉を撃ち込んだに過ぎす、実際に国家を顚覆させたり国体を潰滅させるような行為を心から奨励しているのではないと思われる。いつの間にか「謀叛」は革新のような意味にすり替えられている。

最後の人格云々にしても、謀叛によって乱臣賊子と成り果てたとしても、人格さえ磨かれていれば世間輿論は志士として彼を愛惜するであろう、というようなことではないか。所詮は真正の愛国心あらばよし、とも受け取れるような論調だ。

当時の大逆罪が死刑のみとしていた以上は、本質的には裁判所の判断や刑事手続(という表現でよいかわからないが)を責めるべきところ、文士としては天皇の恩赦に全振りするしかなかったというのはかなり脆いが、周囲の援護射撃もないなかでその危うさをカバーするように感情を先鋭化させて突貫していく蘆花の姿には、我々の心に訴えかけてくるものがある。

安倍元首相の暗殺事件については、案外波風の立たぬうちに判決が受け容れられるのかもしれない。個人的怨恨によって事件を起こした容疑者を幸徳秋水に比するのはあまりにもちぐはぐだが、それでも彼の行為をあえて「謀叛」の文脈で補足するのは価値ある考察かもしれない。いずれにせよ裁判の行方は非常な関心事であるなと改めて思った次第。

去り際に屁をこくように in the UK - 1話

日本に帰任する日が刻々と迫っている。いざ英国から放逐される段になって、一年半の間「ギグを観るほかは引きこもってYoutubeだけを観ていた」という極めて辛い事実に直面し、これはまずいと焦りはじめた。そういうわけで、帰朝までのわずかな残り時間でさんざっぱら屁をこき尽くすが如く、駆け込みで観光してから帰ろうと思う。日記のような雑然としたものを。下手な写真を大量に載せるので、ご注意ください。

雪のおもしろう降りたりし朝

12月10日-11日とLuxembrougに旅行していたら、二日目の朝に雪が降った。暢気なことに雪だるまとか雪合戦の話題になったが、ロンドンに戻る夕方のフライトが二時間も遅延して泣きを見た。それでもキャンセルにならなかっただけ幸いといえよう。雪の止んだ翌朝、外へ出ると月曜日が白い景色になっていた。


しばし滞在している西ロンドンのNorth Actonの駅前。


零度とかいうのに半ズボンの輩がいるのが、西洋人のユニークさというかアングロ・サクソンの屈強さを殊によく示している。


なぜ雪に覆われていない木があるのか。それはさておき水墨画印象派が混じったようでもある。もっと芸術的に撮りたいものだ。


South Kensington BooksはLondonのIndependent系本屋のなかでもおしゃれでかつ品揃えのセンスがよくて気に入っていた。日本と異なり定価で売らねばならない拘束がないためか廉価になっている本も多くて、カフカガルシア・マルケスなどの古典のペーパーバックなどが£3,4で買えてしまう。読書家諸氏の積ん読を増やさんとする悪辣な書店である。

漱石はこれまでロンドンに住んだ日本人のなかで最も偉大と思うが、英国人に広く読まれているわけではない。現代のアーティストでいうと宇多田ヒカルが最も著名かしらん。漱石を紹介する記述に、Cambridgeに通うほどの学費は賄えなかったことや、神経衰弱に陥ってロンドン生活を楽しめなかったことまで言及されているのが面白い。他にもロンドンの東西南北各地に住んだ知識人や書店を紹介する記載が簡潔な物語になっていて大変興味深く読める。とはいえ、英国人にすら忘却の彼方に遣られた大衆作家などは馴染みがなさすぎるので飛ばす。

V&A

Victoria and Albert Museum(V&A)はSouth Kensingtonにある美術館。ここに来るのは一年ぶりくらいの二回目だが、まずGround Floorの大量の像さんたちに圧倒される。そして、陶磁器や銀食器、調度品の部類が並んでいると自分にこういった品物を鑑賞するだけの教養が不足していることを痛感させられて、心なしか足が速まる。

今回はファッションのコーナーをじっくりみて楽しんだ。17世紀頃の貴族のドレスから始まって戦後に至るまでの西洋の服飾の歴史。絵画と同様1900年頃に前衛的な作風が出てくるのが印象的だった。


Religiousな人間ではないが、それでも仏教のコーナーに至ると安心する。これはイケメン。


入り口の展示は定期的に変わるのだと思う。これはたしか、韓国人アーティスト。

Battersea Power Station

Battersea Power Stationは1970-80年代まで稼働していたテムズ川以南の発電所だが、商業施設としての再開発が終わり、2022年10月14日にオープンしていた。南ロンドンのClaphamのフラットに住んでいたときに行かず、フラットを追い出されて西ロンドンに落ち延びてから思い出したように向かうのが計画性のない自分らしいと思う。

公式のリリースによれば、これは90億ポンドもかけた壮大なプロジェクトの一部に過ぎないとか。

以下(拙訳)を読むと、これは街づくりですな。

開発完了の暁には25,000人もの人々が居住し、働くこととなり、ロンドン最大のオフィス・商業・娯楽・文化の中心地が誕生することになります。 42エーカー(訳注: 約17万平方メートル、東京ドーム4個分弱)の敷地内には、250以上のショップ、カフェ、レストラン、劇場、ホテル、医療センター、そして19エーカーの公共スペースにはテムズ川に面する450メートルのリバー・フロントと6エーカーの公園が含まれます。こうして24時間営業の新しいコミュニティが形成される予定です。 バタシー・パワーステーションは新しいオフィス街となり、300万平方フィート(訳注: 約28万平方メートル)を超える商業施設と、個人向けの手頃な価格の住宅が建設される予定です。

フェーズ8まであって、この施設がオープンした現在はまだフェーズ2だという。英国人のことだから、発電所以外のプロジェクトが完成するのは22世紀だろうか。少なくともその頃私はロンドンはおろか地上を去っているに違いない。


Battersea Power StationといえばPink FloydのAnimals(1977)のアートワークに使われたのが有名ですよね。

寄りすぎている。

Jo Maloneの協賛で施設の前の広場にスケートリンクが開設されていた。チケットはなんと£35もするが、どうやら当日中に施設内のJo Maloneの店舗で£35分の買い物ができるらしい("redeemable"と言っているので……)。私は独りだったから、滑る気になるはずもなく、リンクの反対側の施設の方へ渡るために遠回りをさせられただけだった。


まあ愉しそうなご様子だこと。

施設内部の写真を全く撮らなかったが、スチームパンクぽいというか機械ぽい無骨な雰囲気があって好い。上階にはまだオープンしていない店舗もちらほらあった。来年にはテムズ南側の商業施設として店舗がもっと充実するのだと思う。

口惜しいことにこの日気づかなかった。この発電所にはなんとあの「マルキュー」がある。リフトに乗ってロンドン市内を360度展望できる109というやつで、チケットは大人で£15.9とのこと。在英日本人の間で「マルキュー」が話題になる日が来ると断言しよう。南ロンドンに住んでいる人しか訪れないかもしれないし、シャードやスカイガーデンやロンドンアイの展望に負けるだろうから、そんな日は来ないんだけどね。

〆のラーメン


発電所にいたせいか急に身体がラーメンを欲したので、Piccadillyの金田屋へ行った。金田屋は初めて食べたときにきくらげが半凍結状態なのかしらんがやけに食感が悪かったために気分を害して以後避けていたけれど、一風堂が近くになかったので仕方なく行ったら……普通に美味いじゃねえか。あのときはきくらげさんのコンディションが悪かっただけでしたか。

ロンドンでそんなにラーメンを食べたわけじゃないけども、個人的な順位は以下の通り。昇龍は悪くはない。単に日本では戦えないレベル、日本人が通いたくなる店ではないというだけだ。これら以外は後悔するものばかりだった。

  1. 天丸
  2. 一風堂
  3. 金田家
    --- 壁 ---
  4. 昇龍

炎上し油を注ぐソクラテス ―宇佐美りん『推し、燃ゆ』

戦乱で消失し今ではわずかな断片しか残されていないニオイア派哲学者アナクサマンドロスの『断片』によれば、ソクラテスが一部アテネ市民から熱狂的アイドルとして人気を博すなか、これを妬み嫉んだ他の多数の市民たちから叩かれ、遂には「青年たちをかどわかし、ダイモンを信仰した」かどで告発された*1

炎上は事実である。炎上を受けて法廷で弁明するソクラテスだが、まず有罪か無罪かという投票で約280対220で有罪とされてしまったあと、次に告発者の主張する死刑の対案として自分に相応しい刑罰を提案する機会を得る。ここで彼はただ「罰金」とか「アテネからの追放」という妥協点を提案しさえすればよかった(と思われる)。しかし、こともあろうにソクラテス様、火消しどころか次のようにイキり煽り倒して火に油を注いでしまった。

曰く、「えっ死刑? おれっちみたいな功績者には銀座で寿司を奢られる刑の方が相応しいですよね?」と。

実際には「市の迎賓館における食事」だったが、傍聴していたプラトンや他の弟子たちはさぞ耳を疑ったに違いない*2。これは当然の如く反感を買い、評決は約360対140で死刑となる。

このとき傍聴できずに家で待機していたある弟子が思わず漏らした言葉が「推し、燃ゆ」だったと言われている。その気持を推し量りつつ以下の文を味わおう。ファンを殴ったのと陪審員を煽ったのは同じようなことだ。

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。寝苦しい日だった。虫の知らせというのか、自然に目が覚め、時間を確認しようと携帯をひらくとSNSがやけに騒がしい。寝ぼけた目が〈真幸くんファン殴ったって〉という文字をとらえ、一瞬、現実味を失った。腿の裏に寝汗をかいていた。ネットニュースを確認したあとは、タオルケットのめくれ落ちたベッドの上で居竦まるよりほかなく、拡散され燃え広がるのを眺めながら推しの現状だけが気がかりだった。
https://web.kawade.co.jp/bungei/3741/から

この宇佐美りん著『推し、燃ゆ』は第164回芥川賞を受賞した小説だが、このネタのために一応読まねばならぬと思ってAudibleにて読んだ。日本語の小説を音声だけで読んだのはおそらく初めての経験で、新鮮だった。音声の場合、文章を目にすれば否が応でも際立つはずの文体の特徴が掴みづらくて、代わりにナレーターの声質やら声色がインターフェイスになる。これはこれで面白いのだが、テクストそれ自体を味読できているかどうか不安を覚えてしまう。検索性も紙の本や電子書籍と違ってまったくないに等しいから、リニアに聴いてはい終わりとなる。

さて、「推し」という言葉やSNSなどという新しい要素を取り除けば、テーマ自体は昔からあるものだ。宗教を勘定に入れないとしても、AKB48やジャニーズが今のようなアイドルの消費スタイルを確立するはるか昔から、熱烈なファンという者はときに自己を燃やし尽くしてアイドルを追いかけてきたのだ。

ふと、宇多田ヒカルBADモードを思い出す。

メール無視してネトフリでも観てパジャマのままでウーバーイーツでなんか頼んでお風呂一緒に入ろうか

当世らしさを盛り込めば、自分の生きている「いま」という時代や社会、環境がありのまま描かれているだけでも強い快楽を得られる敏感な若者たちは「共感」の一語のもとに称賛を惜しまないだろうが、その皮を剥いでみれば肉質は昔とさほど変わりないのではないかと思う。師匠が炎上して火消しに失敗するところをプラトンが書いているんだから。

それでも、この作品は随所に溢れる比喩がとても巧みで、表現力が抜群だと感じた。高校生の主人公が発達障害学習障害か、何がしかこの世界を生きづらいという十数年の経験的な実感と臨床的なラベル(診断)を胸に抱きながら、自分の背骨を成すともいえる推し活に命もアルバイト代も捧げて、すがって、しかし報われないこの辛さが若者、とりわけ十代や二十代の女性に深く刺さったことはよく理解できる。

彼女が肉体を敵視する姿勢にも惹かれた。思春期のアンバランスな肉体と精神の対立を忘れないような表現の配慮がこまやかにされていて、そこに彼女の抱える病気が実存を脅かすエッセンスとなって加わって三つ巴のようにもなり、彼女が堕落していく様にはまったく違和感がない。それでいて、彼女の頻繁な比喩的内省は頭脳が肉体を浸潤していくような身体性を備えており、肉体に負けまいとする必死の抵抗と思うと心苦しくなるばかりに痛切だ。

ただ、ストーリーからの必然性がなくて取ってつけたような結末でのある行動には笑ってしまった。主題に合わせて綺麗にまとめようとしたのかもしれないが、彼女の世界の卑小さが見え透いてしまうだけだった。つまるところ、推しが燃えただけじゃないかと。またディスレクシアかのような設定と彼女の内心の豊潤な詩的表現力とのギャップに違和感があった。これは語り手の設定の問題と思うが、「わたし」が語り手でなかったらここまで内省的な語りが続く小説は成り立たないだろう。と考えるとディスレクシアにすべきではなかったということかもしれない。

今回の学び: 推しが燃えても推しを描き、ついには自己の哲学を表現するための媒体とまでして推しを超えていったプラトンのすさまじさよ

*1:アナクサゴラスとアナクシマンドロスフュージョンしたら勝手に卑猥になっただけだから、どうか許して欲しい。

*2:ヒカキンの炎上回避法を見ていたら、あるいはソクラテスも炎上にまでは至らなかったかもしれない。