Literary Machine Nº9

文学と音楽、ロンドンの陸地で溺れる税理士

炎上し油を注ぐソクラテス ―宇佐美りん『推し、燃ゆ』

戦乱で消失し今ではわずかな断片しか残されていないニオイア派哲学者アナクサマンドロスの『断片』によれば、ソクラテスが一部アテネ市民から熱狂的アイドルとして人気を博すなか、これを妬み嫉んだ他の多数の市民たちから叩かれ、遂には「青年たちをかどわかし、ダイモンを信仰した」かどで告発された*1

炎上は事実である。炎上を受けて法廷で弁明するソクラテスだが、まず有罪か無罪かという投票で約280対220で有罪とされてしまったあと、次に告発者の主張する死刑の対案として自分に相応しい刑罰を提案する機会を得る。ここで彼はただ「罰金」とか「アテネからの追放」という妥協点を提案しさえすればよかった(と思われる)。しかし、こともあろうにソクラテス様、火消しどころか次のようにイキり煽り倒して火に油を注いでしまった。

曰く、「えっ死刑? おれっちみたいな功績者には銀座で寿司を奢られる刑の方が相応しいですよね?」と。

実際には「市の迎賓館における食事」だったが、傍聴していたプラトンや他の弟子たちはさぞ耳を疑ったに違いない*2。これは当然の如く反感を買い、評決は約360対140で死刑となる。

このとき傍聴できずに家で待機していたある弟子が思わず漏らした言葉が「推し、燃ゆ」だったと言われている。その気持を推し量りつつ以下の文を味わおう。ファンを殴ったのと陪審員を煽ったのは同じようなことだ。

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。寝苦しい日だった。虫の知らせというのか、自然に目が覚め、時間を確認しようと携帯をひらくとSNSがやけに騒がしい。寝ぼけた目が〈真幸くんファン殴ったって〉という文字をとらえ、一瞬、現実味を失った。腿の裏に寝汗をかいていた。ネットニュースを確認したあとは、タオルケットのめくれ落ちたベッドの上で居竦まるよりほかなく、拡散され燃え広がるのを眺めながら推しの現状だけが気がかりだった。
https://web.kawade.co.jp/bungei/3741/から

この宇佐美りん著『推し、燃ゆ』は第164回芥川賞を受賞した小説だが、このネタのために一応読まねばならぬと思ってAudibleにて読んだ。日本語の小説を音声だけで読んだのはおそらく初めての経験で、新鮮だった。音声の場合、文章を目にすれば否が応でも際立つはずの文体の特徴が掴みづらくて、代わりにナレーターの声質やら声色がインターフェイスになる。これはこれで面白いのだが、テクストそれ自体を味読できているかどうか不安を覚えてしまう。検索性も紙の本や電子書籍と違ってまったくないに等しいから、リニアに聴いてはい終わりとなる。

さて、「推し」という言葉やSNSなどという新しい要素を取り除けば、テーマ自体は昔からあるものだ。宗教を勘定に入れないとしても、AKB48やジャニーズが今のようなアイドルの消費スタイルを確立するはるか昔から、熱烈なファンという者はときに自己を燃やし尽くしてアイドルを追いかけてきたのだ。

ふと、宇多田ヒカルBADモードを思い出す。

メール無視してネトフリでも観てパジャマのままでウーバーイーツでなんか頼んでお風呂一緒に入ろうか

当世らしさを盛り込めば、自分の生きている「いま」という時代や社会、環境がありのまま描かれているだけでも強い快楽を得られる敏感な若者たちは「共感」の一語のもとに称賛を惜しまないだろうが、その皮を剥いでみれば肉質は昔とさほど変わりないのではないかと思う。師匠が炎上して火消しに失敗するところをプラトンが書いているんだから。

それでも、この作品は随所に溢れる比喩がとても巧みで、表現力が抜群だと感じた。高校生の主人公が発達障害学習障害か、何がしかこの世界を生きづらいという十数年の経験的な実感と臨床的なラベル(診断)を胸に抱きながら、自分の背骨を成すともいえる推し活に命もアルバイト代も捧げて、すがって、しかし報われないこの辛さが若者、とりわけ十代や二十代の女性に深く刺さったことはよく理解できる。

彼女が肉体を敵視する姿勢にも惹かれた。思春期のアンバランスな肉体と精神の対立を忘れないような表現の配慮がこまやかにされていて、そこに彼女の抱える病気が実存を脅かすエッセンスとなって加わって三つ巴のようにもなり、彼女が堕落していく様にはまったく違和感がない。それでいて、彼女の頻繁な比喩的内省は頭脳が肉体を浸潤していくような身体性を備えており、肉体に負けまいとする必死の抵抗と思うと心苦しくなるばかりに痛切だ。

ただ、ストーリーからの必然性がなくて取ってつけたような結末でのある行動には笑ってしまった。主題に合わせて綺麗にまとめようとしたのかもしれないが、彼女の世界の卑小さが見え透いてしまうだけだった。つまるところ、推しが燃えただけじゃないかと。またディスレクシアかのような設定と彼女の内心の豊潤な詩的表現力とのギャップに違和感があった。これは語り手の設定の問題と思うが、「わたし」が語り手でなかったらここまで内省的な語りが続く小説は成り立たないだろう。と考えるとディスレクシアにすべきではなかったということかもしれない。

今回の学び: 推しが燃えても推しを描き、ついには自己の哲学を表現するための媒体とまでして推しを超えていったプラトンのすさまじさよ

*1:アナクサゴラスとアナクシマンドロスフュージョンしたら勝手に卑猥になっただけだから、どうか許して欲しい。

*2:ヒカキンの炎上回避法を見ていたら、あるいはソクラテスも炎上にまでは至らなかったかもしれない。