Literary Machine Nº9

文学と音楽、ロンドンの陸地で溺れる税理士

村田沙耶香『コンビニ人間』(ネタバレ感想)

ここイギリスには日本のような24/7のコンビニがない。夜中に腹が空いても弁当やパンを買いに行けない。いや、日中でさえあれほどのクオリティの食事は気軽に手に入らない。

そうして、コンビニ渇望症に陥った私は「コンビニ(ほしい)人間」として、思わずこの小説に手を伸ばした。読みやすいが、深く心に残るものがあった。感想文・批評・レビューは書きなれないから、単なる要約紛いの文章になった気もする。

1. 作品のテーマ

この作品は至るところで言われているように「普通とは何か」がテーマの小説だが、より本質的には信仰・声の獲得がテーマなのだと思う。この二つの面から捉えると、普通に生きられない恵子が、内面的な声を奪われて逃げ込んだコンビニという教会で安らぎを得たが、なお異端として抑圧され、ついに自分の声の預言者として自己を確立する物語だ。

以下ではこの二つのテーマを軸にストーリーを絡めて思ったことを書いていく。

2. コンビニ店員として生まれる

コンビニ人間』の主人公、古川恵子という女性は現在36歳で、18歳のときに「コンビニ店員として生まれ」た。

彼女は、コンビニ店員として生まれる前の半生について曖昧な記憶しかない。「普通の家に生まれ、普通に愛されて育った」にも関わらず、周囲からは奇妙がられた。綺麗な青い小鳥が死んでいるのを見つけて父親のために焼鳥にしようと提案したことや、喧嘩をしている男子を止めるためにスコップで頭を殴りつけたこと、女性教師のヒステリーを止めるためにスカートとパンツを下ろしたことなどがエピソードとして自ら語られる。

恵子は合理的に行動しただけだったが、異常者としてのレッテルを貼られた。父母を含む周囲は当然この問題児の扱いに困り、どうやったら「治る」のかと悩んだ。これは病気であり、逸脱、異端、反社会性だ。自分らしく振る舞うことが周囲を悲しめていると知った彼女は、皆の真似をして指示に従うようになった。これは彼女が自らの内側の声を捨てたことを意味している。

そんな処世術のおかげで、トラブルこそ起こさなくなったものの、それで社会生活がまっとうに送れるというわけではない。自分らしさを世間から隠すだけでは、普通にはなれないからだ。依然として、彼女は理不尽でしかない唯一の基準(普通か否か)に翻弄され続けることとなる。

世界は暗黙のルールが多く複雑すぎて、どうすれば普通になれるのかを誰も手取り足取り教えてくれない。ひたすら難しいのだ。周囲からすれば、謎であり複雑で難しいのは病気である恵子の方なのだが。

そんな恵子にとって、コンビニは制服さえ着てしまえば性別・年齢・国籍と無関係の均質な「店員」になれる理想郷だった。店員に求められる仕事や所作はマニュアルやビデオによって明文化されていたから、普通の人間の真似をすることははるかに容易いと思えた。

「世界の正常な部品」としての実感を得られた彼女は、自分が新しく生まれたように感じる。大学卒業後も外の世界へは出ていかず、すでに半生に当たる18年間も同じ店で勤務している。

彼女はコンビニのために生きることで自閉的に完結したい。世界の複雑性を解明したり調伏しようなどとは考えていない。であるのに、外の世界の友人や家族は、病気の単純化と治療の慾求を常に、かつ、一方的に恵子に向け続ける。コンビニは彼女が普通になれたと思い込める場所だというのに、周囲は彼女の内在的な異常性が治癒していないことを攻撃し続ける。コンビニという聖域以外では、暴力的な構造が恒常化している。

3. 普通とはなにか

さて普通とは何だろうか。現代社会にもムラ的な同調圧力があって、これを感じ取れない者(恵子)や感じ取れても同調できない者(恵子に近い、白羽。後述)は異常者とされてしまう。

恵子は外の世界で普通になることなど、子どものときに諦めた。だから大学卒業後就職せずにコンビニという小さな聖域に留まることを決めたのだ。そこでなら普通になれると信じられたし、彼女自身うまく普通に振る舞えていると思っていた。このコンビニと他の店員たちのことを信じていた。

しかし、恵子がどんなにコンビニ店員として普通のふりができたと思っていても、彼女には感情がないから、人間としての異常性は隠しきれない。コンビニの外にいる妹からすればむしろ異常性が増していたと指摘されてしまう。

「お姉ちゃんは、コンビニ始めてからますますおかしかったよ。喋り方も、家でもコンビニみたいに声を張り上げたりするし、表情も変だよ。お願いだから、普通になってよ」 妹はますます泣き出してしまった。

子どもの頃から、恵子の行動原理は合理性だった。喧嘩の仲裁は言葉ではなく暴力でした方が早い。なぜ皆は合理的でないのだろう。彼女の合理性の頂点は、甥っ子に向けられた以下の恐ろしい独白にあらわれている。

赤ん坊が泣き始めている。妹が慌ててあやして静かにさせようとしている。
テーブルの上の、ケーキを半分にする時に使った小さなナイフを見ながら、静かにさせるだけでいいならとても簡単なのに、大変だなあと思った。妹は懸命に赤ん坊を抱きしめている。私はそれを見ながら、ケーキのクリームがついた唇を拭った。

だが、彼女が妹に気付かされるように、世間は合理性を第一の基準などには据えていない。人間はとにかく正常な状態でなければいけないのだ。

叱るのは、「こちら側」の人間だと思っているからなんだ。だから何も問題は起きていないのに「あちら側」にいる姉より、問題だらけでも「こちら側」に姉がいるほうが、妹はずっと嬉しいのだ。そのほうがずっと妹にとって理解可能な、正常な世界なのだ。

そして、終盤に明らかになるように、コンビニ店員という強烈な均質化の陰に隠れていただけで、恵子は実は他の店員からも腫れ物として扱われていた。コンビニのなかで店員という役割がどれほど強度に均質化されようとも、人間の本性は均質化されずに生のままで残されている。普通の呪いは聖域のなかにも入り込んでいた。これは恵子にとって残酷な事実だった。

だが、あるとき白羽という異物の寄生を受け容れたことで周囲は恵子の病気が治ったのだと誤解する。重篤な病人の症状が回復しはじめたように見えた瞬間、それがいかに些細なことでも周囲が飛び上がるほど喜ぶのと似ている。

こうしてはじめて正常側に移れた恵子だが、いつの間にか自分がコンビニ店員以前に「人間のメス」として扱われはじめたことに戸惑う。異常側にいたときの彼女からはまったく見えていなかった、同僚たちのコンビニ店員ではない人間の側面が見え始める。現実を知っていくにつれて、彼女に生きる喜びを与えてくれた教会に流れる音は「不愉快な不協和音」になっていく。

その後信仰を失ってコンビニを辞めた恵子は、生きる基準を失ってしまい、正常な生物らしく、白羽と性交をしたほうがいいのだろうかという疑問を抱く。しかし、白羽の義妹から「あんたらみたいな遺伝子残さないでください」と罵詈雑言を吐かれる。「この義妹はなかなか合理的な物の考え方ができる人だ」と感心してしまう恵子。

どうやら私と白羽さんは、交尾をしないほうが人類にとって合理的らしい。やったことがない性交をするのは不気味で気が進まなかったので少しほっとした。私の遺伝子は、うっかりどこかに残さないように気を付けて寿命まで運んで、ちゃんと死ぬときに処分しよう。そう決意する一方で、途方に暮れてもいた。それは解ったが、そのときまで私は何をして過ごせばいいのだろう。

これほどまでに自分の感情を持たない人間がいるのだろうか。この優生学思想のような激しい意見によっても彼女が心理的にダメージを負っていないからこそ、むしろ読者のこちら側が傷を負う。そんな痛々しい場面だ。

4. 私という人格

人格や性格は遺伝だけではなく、環境によっても形成されていく。恵子の場合、自分の周りにいる同僚の声色や言葉遣い、服装・髪型・小物づかいなどを要素として抽出して、それぞれを組み合わせることによって「私」を作り出している。自分という器に液体を流し込んで「私」が出来上がる。

恵子にとってはとりわけ喋り方のコントロールが重要だ。喋り方というと、我々も意識的に声を落ち着けたり、陽気さや軽やかさを加えたりといった程度の操作をすることはあるが、恵子はなにか言葉を発する前後で誰と誰の喋り方を配合するのかを考えてしまう。今の言い方は店長に近かったな、などと。他人の声のエミュレーターのようになってしまっているのだ。

ロボットが学習できるように、無機質な人間にだって喋り方くらいトレースできる。だが、無断で仕事を辞めた人間に怒ったり、子供をみて子宮を共鳴させたり、恋愛したりすることはできない。もちろん、怒った人の言葉をトレースして怒ったフリだけはできるし、子供を作ろうと思えば白羽と性交するし、恋愛している風に周りは解釈してくれる。

だから、恵子には真似をする機械として生きる道は残されていた。子供さえつくれば、普通の人間の仲間の大きな要件を満たすことになるから。だが、その先も普通らしさを求める攻撃は永遠に止まないだろうし、そもそも劣った人間は子供など作らないでくれという「合理的」な意見に首肯した彼女にこの選択肢はなくなる。

さて我々と彼女との差異は、境界はどこにあるのだろうか。恵子からすれば、みんな誰かの受け売りの癖や仕草をしているのに過ぎず、新しい環境に変われば古い癖や仕草は流れ出して変わってしまっている。そうやって環境によって形成される人格には、完全なオリジナリティなど存在しない。

ルールが分かりづらいだけで結局は均質化されているでしょ、そう言われているようだ。自分というアイデンティティが揺らいでいく。恵子の視点からは、普通の人々は想像力が乏しく、極めて退屈に描かれる。これが普通なのだと自認できれば、平然と生きて異常者を排撃できてしまう……。

18歳のときから、恵子のアイデンティティはコンビニになった。自己のすべてをコンビニに最適化していた恵子がコンビニを棄てるということは、信仰を捨て、生き方を忘れてしまうことだ。体毛を剃って身だしなみを整えることも必要なくなり、髭すら生えてしまう。シャワーも三日に一度。何時に起きたらいいかもわからない。生きる目的がなくなる。

5. 白羽という寄生生物

物語の中盤、白羽がコンビニに雇われる。恵子は白羽が自分と同類であり、しかしコンビニにとっては異物であるとすぐに気がつく。店員たちの声がけの練習を「宗教みたいすっね」と揶揄し、均質化を拒絶し、性格は好戦的で、コンビニで働く人が負け組だとして差別感情を露骨に表す。

コンビニは「強制的に正常化される場所」だ。異物は容赦なく排除される。そう彼女が予想した通り、客の女性にストーカー行為をした彼はすぐにコンビニから異物として排除された。彼女からすれば、異物とされないための処世術は単純明快だった。

「つまり、皆の中にある『普通の人間』という架空の生き物を演じるんです。あのコンビニエンスストアで、全員が『店員』という架空の生き物を演じているのと同じですよ」

白羽という男には他者憎悪と自己卑下が混じっている。自分も童貞で無職というのに、処女だの子宮が老化しているだのと、女性差別の言葉や口汚い罵倒を平然と恵子にぶつける。彼女に世話になっておきながら。どんなに差別的な言葉を言われても怒りの感情が沸かず冷静な恵子からすれば、世界に対する強烈な嫌悪感をいだきながらも、その世界の価値観に拘泥して苦しんでいる彼の生き方がまったく理解できない。

彼は誰にも干渉されたくないといって、恵子に寄生する。恵子は白羽をアパートで飼い、この寄生生物を取り込むことによって、周囲から病気が「治った」ことにされた。これは彼女にとって都合がよかった。恋愛をしているという風に勝手に解釈してもらえるから。

だが、二人の奇妙な関係はすぐに終わりを告げる。 白羽は、人間としての恵子には都合がいいのだが、コンビニ店員としての恵子には「まったく必要ない」のだった。白羽は恵子という寄生先を必要としているが、恵子はコンビニを選ぶ。

不要とされた白羽は恵子を罵ることしかできない。払われた害虫のようだ。宿主から捨てられてしまえば、彼は野垂れ死ぬしかない。恵子はコンビニを信仰しているが、キリスト教の隣人愛のような物語は流れていない。このコンビニ信仰は恵子ただひとりだけのために存在することがわかり、物語は終わる。

彼は恵子が知らなかった普通のルールを熟知していた。どう行動すれば普通になれるか分かっていたのに、その通りの行動ができず(ストーカーもそんな逸脱の一つとして象徴的だ)、落ちこぼれた彼は、早々に口を噤んだ恵子と違って、恨みによって口汚く社会を呪い続ける寄生虫となってしまった。

彼は立場的には恵子の病を治せたはずだった。恵子と形式的に結婚して、子どもをつくればよかった。その治癒を阻害したのは何だろうか。女性蔑視だろうか。単に恵子に魅力がなかったのか。いや、彼の寄生生物としての覚悟が足りなかったのだと思う。自分が生存するためには宿主をうまく操らなければならなかったが、彼からすれば、恵子は宿主としてやはり異常な存在で、手に余ったのかもしれない。

6. 音の器と信仰

子どものころに自分らしい言葉を発しなくなった彼女は、声を持たない器である。「小さな光の箱」であるコンビニの音は、器である彼女に心地よく流れ込む。物語の書き出しも以下のように始まる。

コンビニエンスストアは、音で満ちている。

コンビニは神聖な世界だった。入店者のチャイム音は「教会の鐘の音」に聞こえ、彼女は「光に満ちた箱の中の世界を信じている。」必死の声がけはコンビニへの「祈り」なのだった。

コンビニに音が満ちるのは、空っぽの彼女のなかに音が満ちて音楽が鳴るということだ。眠れない夜にも、コンビニの店内の様子を思い浮かべると、安心して眠れた。異常者として迫害されている彼女が生きていけるのはコンビニの音が自分の身体で鳴っているから。

その音楽は、彼女が正常な側に近づいたせいで「不愉快な不協和音」になってしまう。さらに、恵子がコンビニを辞めて就職活動を始めたとき、肉体は変調をきたし、耳の中でコンビニの音が鳴らなくなってしまう。コンビニの音が身体から消えることは、彼女が寄るべき世界から切断されたことを意味した。一時的に信仰を失った証かもしれない。

しかし、最後のシーンで彼女のもとにまたコンビニの音が流れ込んでくる。いや、今度は音ではなく、声となって。声となったのは彼女が捨てたはずのアイデンティティと一体化したということだ。

 私にコンビニの「声」が流れ込んできた。
 コンビニの中の音の全てが、意味を持って震えていた。その振動が、私の細胞へ直接語りかけ、音楽のように響いているのだった。

世界から切断されていた彼女は、預言者としての自覚を得たかのように人生を自分の手に取り戻す。かつて恵子の言葉は合理的すぎて反感を買い、恐れられた。だが、その身体はこれから先コンビニに奉仕するための道具となる。揺るぎないアイデンティティ、普通であろうとする必要はもうないし、口を噤む必要もなくなった。封印された呪詛の声は、福音の声となって帰ってきたのだから。

結末部は、彼女のなかに音楽が満ちて、共鳴する様を描いて終わる。一曲の宗教音楽を聴いたかの感がある。「私とよく似た明るい声」というのはあくまでも自分自身の内在的な声(本源的自己)ということだろう。これは、神などの外部の声ではない気がする。店の商品の配置などというコンビニのための「合理性」、すなわち自分らしさが、コンビニという教会を媒介して自らに語りかけてくるようになったのだ。

私は生まれたばかりの甥っ子と出会った病院のガラスを思い出していた。ガラスの向こうから、私とよく似た明るい声が響くのが聞こえる。私の細胞全てが、ガラスの向こうで響く音楽に呼応して、皮膚の中で蠢いているのをはっきりと感じていた。

もう誰かの喋り方を真似する必要はない。自分の声をそのまま発すればいい。教会という肉体を媒介して自分自身の内なる声を聞くという、ある種自閉症的な完結。とても美しい。

彼女の人生は充実するが、発展はまったく見込めない。固定化されたのだ。殉教したともいえるかもしれない。

7. 最後に

はじめに書いたように、この作品では信仰・声というのが重要なテーマだと思う。宗教的なモチーフがいろんな箇所に置かれているのは敢えてだと思いたい。

大きな物語がなく、消費的・慾望的に生きている我々の孤独や不安は、コンビニのような極めて世俗的で大衆的な生活のどこかに信仰を見出すことで解決されるのかもしれない、など思ったりもする。

普通とはなにかという表のテーマに従うだけでも楽しく読めるのが、この作品の良さだと思う。この作品はユーモアがあって、笑えるというのも素晴らしい。例えば、からあげ棒のシーンや結末だ。恵子のコンビニへの信仰が狂信として表現されているときに、とくにユーモアが増大する。

これは幸福な物語だというのが私の理解だが、白羽を含む恵子の周囲の正常な人の価値観からすれば、病気を治せなかった女性がコンビニという狭い世界に逃げ込む悲哀の物語でもあるだろう。この手放しで喜べない二面性もこの小説の魅力かもしれない。