Literary Machine Nº9

文学と音楽、ロンドンの陸地で溺れる税理士

ウーバーイーツで余計なおまけが付いていたとき、ソクラテスならどうするか

今日のランチにウーバーイーツ(厳密にはDeliverooというサービス)を頼んだら、おまけが付いていた。注文したのはDishoomという英国随一に美味いインドカレー屋だった。この地ではまだ大してカレーを食べていないから偉そうに言えたものではないが、先日初めてここのチキンカレー(とナン)を食べたら、とんでもなく辛いものを食べた人が「ひー辛い」とひたすら言い続けるのと同じ頻度で「美味ぇ」と言いながら平らげた。だから、随一に美味いと言ってまず差し支えないと思う。

この先日というのは、実は先週である。わずか一週間でまた食べたくなったのだが、何せカレールーだけで13.5ポンドもするからそう気軽に食べられたものでもない。10ポンドまでは迷わず注文して良いという約束を自分との間で結んでいる僕だが、その閾値を超えている。そこで今回はナンもライスも頼まずにルーだけを注文し、米は自分で炊くことにして、良心との間で妥協を図った。米が炊ける時間を見計らって注文もしたから抜かりはない。米を待つ間にルーが冷めたりでもしたら閉口だから。

しかし、配達員が持ってきた包みを受け取ったときには驚いた。袋の中にSteamed Riceというやつが混じっている。いったいどこの子かしら。誤って注文したかと思ったが注文は正しい。僕の名前が記載されているから他人の注文と取り違えたのでもない。ということは、店がつい間違って米を入れてしまったに違いない。

さてどうするか。選択肢は三つあった。

  1. 間違えた方が悪いのだから、黙って頂戴して構わない。どうせ、一度誤配されたものは店としても廃棄するよりないし、もしかしたらご愛顧者への気前好いサービスかもしれないじゃないか。
  2. なんて意地汚い。不当利得だ。余計なものが入っていたから引き取ってくれと正直に申し出るか、あるいは店まで持参すべきだ。それで差し上げますと言われたらば、後ろ暗いところなく頂戴できるでしょう。
  3. どうやったってこの米は廃棄されるんだ。だから、おれが黙って廃棄する。店は正しく注文を処理したと思い続けられるし、米は静かにこの世を去り、不当に利益を受ける者もいない。隠蔽によって世界平和が維持される。
  4. 打撃を与えてやろう。罪はもちろん償います。*1

迷ったものの、アプリのチャットで問い合わせたらあっさりと「頼んだものが届いてるなら食べちゃって良いよ!」という返事がもらえたのである。美味しくいただいた。

近ごろ文学と哲学への情熱が再燃しており、このプラトンの対話篇集を買った。初期を中心とした5つの対話篇が収められている本で、日本語訳を参照しながら少しずつ読んでいる(『エウテュプロン』は邦訳がKindleにないが)。

うち『クリトン』はソクラテスが不当な死刑判決を受けて牢獄で執行を待つところへ、彼の友人クリトンが現れて、脱獄と亡命の準備が万端整ったから逃げてくれと説得する。というよりほとんど嘆願にもみえるが、ソクラテスは法を犯すという不正を行うことを拒んで、むしろクリトンを説得する、という話。

むかし読んだときには「逃げたらいいじゃん」とソクラテスの強情ぶりに驚嘆した記憶がある。不当な判決になど屈しないで国外に逃げろと、友情やソクラテスの子供をダシにしたり、勇気や男らしさを梃子にしてソクラテスを煽ったりと説得を繰り広げるクリトンの方が世間一般の感情に近いからこそ、ミイラ取りよろしく呆気なく論駁されていくクリトンに共感してしまう。

思うに、思想犯・政治犯で一度国外に逃げてから機を見て名誉を回復するケースは歴史上枚挙に暇がないではないか。すべての準備を整えて、あとはソクラテスが承認を待つのみ。会社員ならばとんでもなく優秀・有能な男よクリトン。名前は似ているが、あのクリリンとは比較にならぬ。ソクラテス、君を助けることで僕らが財産を没収されたりするなんてそんなことを気にして迷うんじゃないぞ、とそこまで推し量ってくれるんだから完璧だ。

しかし今回の読書では、ソクラテスの理性が狂気に近いところまで徹底されているところに注目した。終盤のソクラテスは国外逃亡をした場合にアテネ国家からどんな誹りを受けるかということを理路整然と語って、いかに判決が不正なものだったとしても、逃げることは不正に違いない、不正なことをすれば「よき生」に反するからそんなことはしないと言ってクリトンを諦めさせる。『クリトン』ではたまたまアテネ国家を内面化して代弁しているが、このような理性の声は彼の頭のなかで常に響いていた。統合失調者の幻聴のごとく恐ろしくはないだろうか。いやむしろ幻聴と異なってロジカルなだけにより一層悲壮に思える。こんなキャラが国家に現れたら腫れ物のように袋叩きにして追い出そうとするのも無理はない。彼自身はよき生をまっとうしたと思って毒杯をあおっただろうが、凡人の傍目にはよき生の苦しさが際立って映ってしまう。

今回の学び: ソクラテスはウーバーイーツで余計なおまけが付いていても、逃亡せずに毒杯をあおったに違いない。

クリトンの参考文献として田中享英氏のクリトンを読む(上)が非常に示唆深くまた楽しく読めた。

『クリトン』を読む (上) : HUSCAP

ただ、(下)は発表されていないのか検索しても出てこない。前半部分しか氏の解説に触れられないのは残念だ。1996年のこの論文ののち1998年には講談社学術文庫の訳書を出しているから、そこで解説は尽くされているということだろうか。