Literary Machine Nº9

文学と音楽、ロンドンの陸地で溺れる税理士

炎上し油を注ぐソクラテス ―宇佐美りん『推し、燃ゆ』

戦乱で消失し今ではわずかな断片しか残されていないニオイア派哲学者アナクサマンドロスの『断片』によれば、ソクラテスが一部アテネ市民から熱狂的アイドルとして人気を博すなか、これを妬み嫉んだ他の多数の市民たちから叩かれ、遂には「青年たちをかどわかし、ダイモンを信仰した」かどで告発された*1

炎上は事実である。炎上を受けて法廷で弁明するソクラテスだが、まず有罪か無罪かという投票で約280対220で有罪とされてしまったあと、次に告発者の主張する死刑の対案として自分に相応しい刑罰を提案する機会を得る。ここで彼はただ「罰金」とか「アテネからの追放」という妥協点を提案しさえすればよかった(と思われる)。しかし、こともあろうにソクラテス様、火消しどころか次のようにイキり煽り倒して火に油を注いでしまった。

曰く、「えっ死刑? おれっちみたいな功績者には銀座で寿司を奢られる刑の方が相応しいですよね?」と。

実際には「市の迎賓館における食事」だったが、傍聴していたプラトンや他の弟子たちはさぞ耳を疑ったに違いない*2。これは当然の如く反感を買い、評決は約360対140で死刑となる。

このとき傍聴できずに家で待機していたある弟子が思わず漏らした言葉が「推し、燃ゆ」だったと言われている。その気持を推し量りつつ以下の文を味わおう。ファンを殴ったのと陪審員を煽ったのは同じようなことだ。

推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。寝苦しい日だった。虫の知らせというのか、自然に目が覚め、時間を確認しようと携帯をひらくとSNSがやけに騒がしい。寝ぼけた目が〈真幸くんファン殴ったって〉という文字をとらえ、一瞬、現実味を失った。腿の裏に寝汗をかいていた。ネットニュースを確認したあとは、タオルケットのめくれ落ちたベッドの上で居竦まるよりほかなく、拡散され燃え広がるのを眺めながら推しの現状だけが気がかりだった。
https://web.kawade.co.jp/bungei/3741/から

この宇佐美りん著『推し、燃ゆ』は第164回芥川賞を受賞した小説だが、このネタのために一応読まねばならぬと思ってAudibleにて読んだ。日本語の小説を音声だけで読んだのはおそらく初めての経験で、新鮮だった。音声の場合、文章を目にすれば否が応でも際立つはずの文体の特徴が掴みづらくて、代わりにナレーターの声質やら声色がインターフェイスになる。これはこれで面白いのだが、テクストそれ自体を味読できているかどうか不安を覚えてしまう。検索性も紙の本や電子書籍と違ってまったくないに等しいから、リニアに聴いてはい終わりとなる。

さて、「推し」という言葉やSNSなどという新しい要素を取り除けば、テーマ自体は昔からあるものだ。宗教を勘定に入れないとしても、AKB48やジャニーズが今のようなアイドルの消費スタイルを確立するはるか昔から、熱烈なファンという者はときに自己を燃やし尽くしてアイドルを追いかけてきたのだ。

ふと、宇多田ヒカルBADモードを思い出す。

メール無視してネトフリでも観てパジャマのままでウーバーイーツでなんか頼んでお風呂一緒に入ろうか

当世らしさを盛り込めば、自分の生きている「いま」という時代や社会、環境がありのまま描かれているだけでも強い快楽を得られる敏感な若者たちは「共感」の一語のもとに称賛を惜しまないだろうが、その皮を剥いでみれば肉質は昔とさほど変わりないのではないかと思う。師匠が炎上して火消しに失敗するところをプラトンが書いているんだから。

それでも、この作品は随所に溢れる比喩がとても巧みで、表現力が抜群だと感じた。高校生の主人公が発達障害学習障害か、何がしかこの世界を生きづらいという十数年の経験的な実感と臨床的なラベル(診断)を胸に抱きながら、自分の背骨を成すともいえる推し活に命もアルバイト代も捧げて、すがって、しかし報われないこの辛さが若者、とりわけ十代や二十代の女性に深く刺さったことはよく理解できる。

彼女が肉体を敵視する姿勢にも惹かれた。思春期のアンバランスな肉体と精神の対立を忘れないような表現の配慮がこまやかにされていて、そこに彼女の抱える病気が実存を脅かすエッセンスとなって加わって三つ巴のようにもなり、彼女が堕落していく様にはまったく違和感がない。それでいて、彼女の頻繁な比喩的内省は頭脳が肉体を浸潤していくような身体性を備えており、肉体に負けまいとする必死の抵抗と思うと心苦しくなるばかりに痛切だ。

ただ、ストーリーからの必然性がなくて取ってつけたような結末でのある行動には笑ってしまった。主題に合わせて綺麗にまとめようとしたのかもしれないが、彼女の世界の卑小さが見え透いてしまうだけだった。つまるところ、推しが燃えただけじゃないかと。またディスレクシアかのような設定と彼女の内心の豊潤な詩的表現力とのギャップに違和感があった。これは語り手の設定の問題と思うが、「わたし」が語り手でなかったらここまで内省的な語りが続く小説は成り立たないだろう。と考えるとディスレクシアにすべきではなかったということかもしれない。

今回の学び: 推しが燃えても推しを描き、ついには自己の哲学を表現するための媒体とまでして推しを超えていったプラトンのすさまじさよ

*1:アナクサゴラスとアナクシマンドロスフュージョンしたら勝手に卑猥になっただけだから、どうか許して欲しい。

*2:ヒカキンの炎上回避法を見ていたら、あるいはソクラテスも炎上にまでは至らなかったかもしれない。

芥川賞受賞作一覧(Kindle)

166回 (2021年)

165回 (2021年)

164回 (2020年)

163回 (2020年)

162回 (2019年)

161回 (2019年)

160回 (2018年)

159回 (2018年)

158回 (2017年)

157回 (2017年)

156回 (2016年)

155回 (2016年)

154回 (2015年)

153回 (2015年)

152回 (2014年)

151回 (2014年)

150回 (2013年)

149回 (2013年)

148回 (2012年)

147回 (2012年)

146回 (2011年)

145回 (2011年)

なし

144回 (2010年)

143回 (2010年)

142回 (2009年)

なし

141回 (2009年)

140回 (2008年)

ポトスライムの舟 - 津村記久子

139回 (2008年)

138回 (2007年)

137回 (2007年)

アサッテの人

136回 (2006年)

135回 (2006年)

134回 (2005年)

133回 (2005年)

土の中の子供

132回 (2004年)

131回 (2004年)

介護入門

130回 (2003年)

129回 (2003年)

128回 (2002年)

127回 (2002年)

126回 (2001年)

125回 (2001年)

124回 (2000年)

聖水

123回 (2000年)

熊の敷石

122回 (1999年)

蔭の棲みか

121回 (1999年)

なし

120回 (1998年)

119回 (1998年)

118回 (1997年)

なし

117回 (1997年)

水滴

116回 (1996年)

海峡の光 家族シネマ

115回 (1996年)

114回 (1995年)

豚の報い

113回 (1995年)

この人の閾

112回 (1994年)

なし

111回 (1994年)

おどるでく

110回 (1993年)

石の来歴

109回 (1993年)

108回 (1992年)

107回 (1992年)

106回 (1991年)

至高聖所(アバトーン)

105回 (1991年)

自動起床装置

104回 (1990年)

背負い水

103回 (1990年)

102回 (1989年)

表層生活

101回 (1989年)

なし

100回 (1988年)

由煕

99回 (1988年)

98回 (1987年)

スティル・ライフ 長男の出家

97回 (1987年)

鍋の中

96回 (1986年)

なし

95回 (1986年)

なし

94回 (1985年)

93回 (1985年)

なし

92回 (1984年)

青桐

91回 (1984年)

なし

90回 (1983年)

杢二の世界

89回 (1983年)

なし

88回 (1982年)

佐川君からの手紙

87回 (1982年)

なし

86回 (1981年)

なし

85回 (1981年)

84回 (1980年)

83回 (1980年)

なし

82回 (1979年)

81回 (1979年)

やまあいの煙 愚者の夜

80回 (1978年)

なし

79回 (1978年)

伸予
九月の空

78回 (1977年)

榧の木祭り

77回 (1977年)

エーゲ海に捧ぐ

76回 (1976年)

なし

75回 (1976年)

限りなく透明に近いブルー

74回 (1975年)

志賀島

73回 (1975年)

祭りの場

72回 (1974年)

土の器

71回 (1974年)

なし

70回 (1973年)

草のつるぎ

69回 (1973年)

68回 (1972年)

67回 (1972年)

いつか汽笛を鳴らして 誰かが触った

66回 (1971年)

65回 (1971年)

なし

64回 (1970年)

63回 (1970年)

62回 (1969年)

アカシヤの大連

61回 (1969年)

60回 (1968年)

なし

59回 (1968年)

58回 (1967年)

57回 (1967年)

56回 (1966年)

夏の流れ

55回 (1966年)

なし

54回 (1965年)

北の河

53回 (1965年)

52回 (1964年)

なし

51回 (1964年)

50回 (1963年)

49回 (1963年)

少年の橋

48回 (1962年)

なし

47回 (1962年)

美談の出発

46回 (1961年)

鯨神

45回 (1961年)

なし

44回 (1960年)

43回 (1960年)

42回 (1959年)

なし

41回 (1959年)

山塔

40回 (1958年)

なし

39回 (1958年)

38回 (1957年)

37回 (1957年)

36回 (1956年)

なし

35回 (1956年)

海人舟

34回 (1955年)

33回 (1955年)

32回 (1954年)

プールサイド小景

31回 (1954年)

30回 (1953年)

なし

29回 (1953年)

28回 (1952年)

喪神

27回 (1952年)

なし

26回 (1951年)

25回 (1951年)


春の草

24回 (1950年)

なし

23回 (1950年)

異邦人

22回 (1949年)

21回 (1949年)

確証
本の話

20回 (1944年)

雁立

19回 (1944年)

劉廣福
登攀

18回 (1943年)

和紙

和紙

Amazon

17回 (1943年)

纏足の頃

16回 (1942年)

連絡員

15回 (1942年)

なし

14回 (1941年)

青果の市

13回 (1941年)

長江デルタ

12回 (1940年)

平賀源内

11回 (1940年)

なし

10回 (1939年)

密猟者

9回 (1939年)

鶏騒動 あさくさの子供

8回 (1938年)

乗合馬車

7回 (1938年)

6回 (1937年)

糞尿譚

5回 (1937年)

4回 (1936年)

地中海

3回 (1936年)

城外 コシャマイン

2回 (1935年)

なし

1回 (1935年)

蒼氓

ウーバーイーツで余計なおまけが付いていたとき、ソクラテスならどうするか

今日のランチにウーバーイーツ(厳密にはDeliverooというサービス)を頼んだら、おまけが付いていた。注文したのはDishoomという英国随一に美味いインドカレー屋だった。この地ではまだ大してカレーを食べていないから偉そうに言えたものではないが、先日初めてここのチキンカレー(とナン)を食べたら、とんでもなく辛いものを食べた人が「ひー辛い」とひたすら言い続けるのと同じ頻度で「美味ぇ」と言いながら平らげた。だから、随一に美味いと言ってまず差し支えないと思う。

この先日というのは、実は先週である。わずか一週間でまた食べたくなったのだが、何せカレールーだけで13.5ポンドもするからそう気軽に食べられたものでもない。10ポンドまでは迷わず注文して良いという約束を自分との間で結んでいる僕だが、その閾値を超えている。そこで今回はナンもライスも頼まずにルーだけを注文し、米は自分で炊くことにして、良心との間で妥協を図った。米が炊ける時間を見計らって注文もしたから抜かりはない。米を待つ間にルーが冷めたりでもしたら閉口だから。

しかし、配達員が持ってきた包みを受け取ったときには驚いた。袋の中にSteamed Riceというやつが混じっている。いったいどこの子かしら。誤って注文したかと思ったが注文は正しい。僕の名前が記載されているから他人の注文と取り違えたのでもない。ということは、店がつい間違って米を入れてしまったに違いない。

さてどうするか。選択肢は三つあった。

  1. 間違えた方が悪いのだから、黙って頂戴して構わない。どうせ、一度誤配されたものは店としても廃棄するよりないし、もしかしたらご愛顧者への気前好いサービスかもしれないじゃないか。
  2. なんて意地汚い。不当利得だ。余計なものが入っていたから引き取ってくれと正直に申し出るか、あるいは店まで持参すべきだ。それで差し上げますと言われたらば、後ろ暗いところなく頂戴できるでしょう。
  3. どうやったってこの米は廃棄されるんだ。だから、おれが黙って廃棄する。店は正しく注文を処理したと思い続けられるし、米は静かにこの世を去り、不当に利益を受ける者もいない。隠蔽によって世界平和が維持される。
  4. 打撃を与えてやろう。罪はもちろん償います。*1

迷ったものの、アプリのチャットで問い合わせたらあっさりと「頼んだものが届いてるなら食べちゃって良いよ!」という返事がもらえたのである。美味しくいただいた。

近ごろ文学と哲学への情熱が再燃しており、このプラトンの対話篇集を買った。初期を中心とした5つの対話篇が収められている本で、日本語訳を参照しながら少しずつ読んでいる(『エウテュプロン』は邦訳がKindleにないが)。

うち『クリトン』はソクラテスが不当な死刑判決を受けて牢獄で執行を待つところへ、彼の友人クリトンが現れて、脱獄と亡命の準備が万端整ったから逃げてくれと説得する。というよりほとんど嘆願にもみえるが、ソクラテスは法を犯すという不正を行うことを拒んで、むしろクリトンを説得する、という話。

むかし読んだときには「逃げたらいいじゃん」とソクラテスの強情ぶりに驚嘆した記憶がある。不当な判決になど屈しないで国外に逃げろと、友情やソクラテスの子供をダシにしたり、勇気や男らしさを梃子にしてソクラテスを煽ったりと説得を繰り広げるクリトンの方が世間一般の感情に近いからこそ、ミイラ取りよろしく呆気なく論駁されていくクリトンに共感してしまう。

思うに、思想犯・政治犯で一度国外に逃げてから機を見て名誉を回復するケースは歴史上枚挙に暇がないではないか。すべての準備を整えて、あとはソクラテスが承認を待つのみ。会社員ならばとんでもなく優秀・有能な男よクリトン。名前は似ているが、あのクリリンとは比較にならぬ。ソクラテス、君を助けることで僕らが財産を没収されたりするなんてそんなことを気にして迷うんじゃないぞ、とそこまで推し量ってくれるんだから完璧だ。

しかし今回の読書では、ソクラテスの理性が狂気に近いところまで徹底されているところに注目した。終盤のソクラテスは国外逃亡をした場合にアテネ国家からどんな誹りを受けるかということを理路整然と語って、いかに判決が不正なものだったとしても、逃げることは不正に違いない、不正なことをすれば「よき生」に反するからそんなことはしないと言ってクリトンを諦めさせる。『クリトン』ではたまたまアテネ国家を内面化して代弁しているが、このような理性の声は彼の頭のなかで常に響いていた。統合失調者の幻聴のごとく恐ろしくはないだろうか。いやむしろ幻聴と異なってロジカルなだけにより一層悲壮に思える。こんなキャラが国家に現れたら腫れ物のように袋叩きにして追い出そうとするのも無理はない。彼自身はよき生をまっとうしたと思って毒杯をあおっただろうが、凡人の傍目にはよき生の苦しさが際立って映ってしまう。

今回の学び: ソクラテスはウーバーイーツで余計なおまけが付いていても、逃亡せずに毒杯をあおったに違いない。

クリトンの参考文献として田中享英氏のクリトンを読む(上)が非常に示唆深くまた楽しく読めた。

『クリトン』を読む (上) : HUSCAP

ただ、(下)は発表されていないのか検索しても出てこない。前半部分しか氏の解説に触れられないのは残念だ。1996年のこの論文ののち1998年には講談社学術文庫の訳書を出しているから、そこで解説は尽くされているということだろうか。

他人の金でする賭博は楽しいか

既にほとんど解決し、語られ尽くした感のある4,630万円の誤振込についての備忘をいまさら書こう。税理士であることを忘れないためにも。

  • 今回の国税徴収法に基づく差押えはかなり強引で、差押処分について行政訴訟を起こされるリスクがあったはずだ。もちろん相手方の決済業者の後ろ暗さを突くことで、オンラインカジノなどよりも余程勝算の明らかな賭けだったのだろう。この弁護士の辣腕を称賛したいし、国税徴収法という税理士の試験科目中のギャグ要員*1が面目躍如を果たしたことも祝いたい。だが、公権力に対してこれほど強力な規定が配備されていて、私法上の債権を回収するために転用されたことも忘れてはいけない。

  • 回収できた分については、「法形式的には、容疑者から返還されたことになる」とのことだ。公序良俗に反する行為に基づく債権だという主張に対して、決済業者が本人の口座を介さず阿武町に直接返還したということだろうか。詳細な理屈はよくわからない。

  • 一つ気になるのは、返還させられた分について決済業者が本人に債権を主張するのかどうかだけれども、この返還がなされた経緯を鑑みるとこの件については諦めそうにも思える。となると、彼は少なくとも返還したことになっている分については他人の金でギャンブルができたことになる。これは博徒にとって至高の快楽に違いない。阿武町への残りの債務は請求されるだろうし、その分については課税もされてしまうから、まったくのタダ賭博というわけではないが、それでも強烈にレバレッジを効かせたことは確かである。あの有能な弁護士は金を回収しながら「一番悪い」奴をぶちのめすことにも成功したことになる。ただし、これはあくまでも私の想像に過ぎない。

  • さて、彼が誤って取得した4,630万円は一時所得計算上の「総収入金額とすべき金額」(所得税法第36条)として課税されるべきものだった。この「総収入金額とすべき金額」はその収入の起因となった行為が適法であるかどうかを問わない、と解釈されている(所得税基本通達36-1参照)からだ。この場合の税金は所得税と住民税とで併せてざっと700万円くらいかと思う。

  • 仮定法だ。もしも阿武町の雇った弁護士がポンコツだったとして、彼が返還を拒み続けていた場合に、自ら確定申告をすることはまず期待できぬ超常現象だから、遅かれ早かれ税務署長から更正処分を受けて課税される羽目になっていたに違いない。

  • しかし、確定申告であれ更正処分であれ、いったん課税されたとしてもその後不当利得返還義務を履行して誤入金された金銭を返還しさえすれば、「無効な行為により生じた経済的成果がその行為の無効であることに基因して失われた」ものとして、所得税法第152条および所得税法施行令第274条第1号により更正の請求により税金は還付を受けられたはずである。*2

  • とはいえ、今回阿武町が回収した金額、すなわち本人からの返還がなされた部分の金額については、そもそも所得を構成しないこととなって、最初から課税もされない。未返還の残額について課税されることは言うまでもない。

  • 今回の事案から得た学び: 他人の金でする賭博は最高に楽しいに違いない

*1:納税者の側に立つはずの税理士の試験科目に租税を徴収するための規定が紛れ込む刺激的なアイロニーを指す。

*2:ちなみにこの「無効な行為により生じた経済的成果がその行為の無効であることに基因して失われた」かどうかは、それまで正当な権利行使の結果として得ていたはずの経済的成果が無効の法理によって一転して不当利得であるとされ、不当利得返還義務が生じることを意味するから、現実に返還したときと解する余地はないと主張した裁決事例があるが、国税不服審判所は「現実に返還されたとき」とした。(平21.8.28、裁決事例集No.78 152頁) | 公表裁決事例等の紹介 | 国税不服審判所 これは事業所得についての事案で根拠法令もそもそも異なるが、理由はともかく一時所得であっても結論は変わらないと推測される。

Kindleを忘れかけたこと

先月、日本に一時帰国していた間にKindle Paperwhiteの第11世代を買った。英国でも買えるのにどうしてわざわざ日本で買ったのか。消費税を含む値段以外の理由はない。今回は奮発して公式のカバーと保護シールも購入した。

そんな買ったばかりのKindleだったが、ヒースロー空港に着陸した飛行機内に置き去りにしてしまった。座席は三列席で間の一列が空けられていた。窓際に坐っていた私は、もう旅客は多いだろうにコロナ対策のためだろうかと考えていたが、戦争のためにロシア領空を避けてアンカレッジを経由するルートでは三時間長い飛行時間となるから、燃料消費を抑える目的で客数を減らしていたのかもしれない。空席のおかげで長旅もそれほど窮屈ではなかったが、十五時間分散らかった荷物を片付けなくてはならない。それで手に持っていたKindleを隣の席に何気なく置いてしまった。

「そのまま忘れたなんて莫迦にも程があるだろう」

いや、これには言い訳があって、断然、通路側に坐っていた学生らしき女性のせいなのだ。コンクールでもあるのだろうか、楽譜を読んでいたその女性はベルトの着用サインが消えると立ち上がって荷棚から楽器のケースのようなものを下ろした。これは通常の光景だったが、彼女は自分の用事が済むや私に気を遣ってくれた。

「荷物お取りしますね」
「重いですよ」と発したときには少し大変そうに荷物を下ろしてくれていた。
「ありがとうございます」

二人の会話は単にこれだけだったが、荷物を下ろしてもらった嬉しさなどより、こういう若い女性が当然のように他人に気を遣っている当たり前の仕草を垣間見たというありがたみの方が大きかった。人間は、その行為を包み込む雰囲気だったり、言葉だったり、その人のもっている善性だったりを発揮することで、行為自体の美しさなど簡単に凌駕できるのだと、そんなことを考えた。

パスポートを読み込む機械がいつもまともに機能しないのはさておき、英国に無事に入国できて、Buggage Claimに行った。ちょうど自分のスーツケースが手前に流れてきたので、ベルトコンベアから下ろす。そのとき、流れている荷物のタグを一々確認していたJALのスタッフらしき男性が、スーツケースを引いて去ろうとする私に声をかけてきた。

「ろきんさんですね」
「はい」
「機内に忘れ物をされたでしょう」
「さあ……何でしょうか」

こういう会話の後、彼が無線機で確認をしてくれて、Kindleを機内に忘れたことにようやく気が付いたというわけだ。実はそれまでに電話が数度かかってきて、一度だけ折り返したが行き違いになっていた。Whocallsmeで発信元を調べたが記録がなくて警戒していたが、まさかJALだったとは。そのまま他のスタッフがこの忘れ物を届けに来てくれるのを待つことになった。

他の乗客たちが荷物を受け取って颯爽と去っていくのを見送って、ついに誰もいなくなると、下らない忘れ物をした自分が情けなくなってくる。そこにグレーの髪の日本人の男性が現れた。その人はもしかしたらパイロットかもしれない、と思う。残念ながらパイロットを見分ける能力がないのでその人が本当にパイロットだったかどうか自信はないが、日本人で、それなりの年齢で、落ち着いていていながらどこか品というか色気がある。つまりパイロットらしさがあった。

その人は間抜けにも忘れ物をして、電話を無視して突進していった同胞のところにわざわざやって来てくれただけではなく、愚痴をこぼすでもなく、むしろ誰もいなくなるまで私を待たせたことを謝った。日本で買ったばかりだったので本当に助かったと感謝したら、見つけられて好かったです、と笑って去っていった。

このように早速Kindleをなくす危機に陥ったわけだが、一つだけ確かなのは、あの女性が私に話しかけてこなければ、Kindleを忘れることはなかったということだ。だからあの女性のせいなのだ。

村田沙耶香『コンビニ人間』(ネタバレ感想)

ここイギリスには日本のような24/7のコンビニがない。夜中に腹が空いても弁当やパンを買いに行けない。いや、日中でさえあれほどのクオリティの食事は気軽に手に入らない。

そうして、コンビニ渇望症に陥った私は「コンビニ(ほしい)人間」として、思わずこの小説に手を伸ばした。読みやすいが、深く心に残るものがあった。感想文・批評・レビューは書きなれないから、単なる要約紛いの文章になった気もする。

1. 作品のテーマ

この作品は至るところで言われているように「普通とは何か」がテーマの小説だが、より本質的には信仰・声の獲得がテーマなのだと思う。この二つの面から捉えると、普通に生きられない恵子が、内面的な声を奪われて逃げ込んだコンビニという教会で安らぎを得たが、なお異端として抑圧され、ついに自分の声の預言者として自己を確立する物語だ。

以下ではこの二つのテーマを軸にストーリーを絡めて思ったことを書いていく。

2. コンビニ店員として生まれる

コンビニ人間』の主人公、古川恵子という女性は現在36歳で、18歳のときに「コンビニ店員として生まれ」た。

彼女は、コンビニ店員として生まれる前の半生について曖昧な記憶しかない。「普通の家に生まれ、普通に愛されて育った」にも関わらず、周囲からは奇妙がられた。綺麗な青い小鳥が死んでいるのを見つけて父親のために焼鳥にしようと提案したことや、喧嘩をしている男子を止めるためにスコップで頭を殴りつけたこと、女性教師のヒステリーを止めるためにスカートとパンツを下ろしたことなどがエピソードとして自ら語られる。

恵子は合理的に行動しただけだったが、異常者としてのレッテルを貼られた。父母を含む周囲は当然この問題児の扱いに困り、どうやったら「治る」のかと悩んだ。これは病気であり、逸脱、異端、反社会性だ。自分らしく振る舞うことが周囲を悲しめていると知った彼女は、皆の真似をして指示に従うようになった。これは彼女が自らの内側の声を捨てたことを意味している。

そんな処世術のおかげで、トラブルこそ起こさなくなったものの、それで社会生活がまっとうに送れるというわけではない。自分らしさを世間から隠すだけでは、普通にはなれないからだ。依然として、彼女は理不尽でしかない唯一の基準(普通か否か)に翻弄され続けることとなる。

世界は暗黙のルールが多く複雑すぎて、どうすれば普通になれるのかを誰も手取り足取り教えてくれない。ひたすら難しいのだ。周囲からすれば、謎であり複雑で難しいのは病気である恵子の方なのだが。

そんな恵子にとって、コンビニは制服さえ着てしまえば性別・年齢・国籍と無関係の均質な「店員」になれる理想郷だった。店員に求められる仕事や所作はマニュアルやビデオによって明文化されていたから、普通の人間の真似をすることははるかに容易いと思えた。

「世界の正常な部品」としての実感を得られた彼女は、自分が新しく生まれたように感じる。大学卒業後も外の世界へは出ていかず、すでに半生に当たる18年間も同じ店で勤務している。

彼女はコンビニのために生きることで自閉的に完結したい。世界の複雑性を解明したり調伏しようなどとは考えていない。であるのに、外の世界の友人や家族は、病気の単純化と治療の慾求を常に、かつ、一方的に恵子に向け続ける。コンビニは彼女が普通になれたと思い込める場所だというのに、周囲は彼女の内在的な異常性が治癒していないことを攻撃し続ける。コンビニという聖域以外では、暴力的な構造が恒常化している。

3. 普通とはなにか

さて普通とは何だろうか。現代社会にもムラ的な同調圧力があって、これを感じ取れない者(恵子)や感じ取れても同調できない者(恵子に近い、白羽。後述)は異常者とされてしまう。

恵子は外の世界で普通になることなど、子どものときに諦めた。だから大学卒業後就職せずにコンビニという小さな聖域に留まることを決めたのだ。そこでなら普通になれると信じられたし、彼女自身うまく普通に振る舞えていると思っていた。このコンビニと他の店員たちのことを信じていた。

しかし、恵子がどんなにコンビニ店員として普通のふりができたと思っていても、彼女には感情がないから、人間としての異常性は隠しきれない。コンビニの外にいる妹からすればむしろ異常性が増していたと指摘されてしまう。

「お姉ちゃんは、コンビニ始めてからますますおかしかったよ。喋り方も、家でもコンビニみたいに声を張り上げたりするし、表情も変だよ。お願いだから、普通になってよ」 妹はますます泣き出してしまった。

子どもの頃から、恵子の行動原理は合理性だった。喧嘩の仲裁は言葉ではなく暴力でした方が早い。なぜ皆は合理的でないのだろう。彼女の合理性の頂点は、甥っ子に向けられた以下の恐ろしい独白にあらわれている。

赤ん坊が泣き始めている。妹が慌ててあやして静かにさせようとしている。
テーブルの上の、ケーキを半分にする時に使った小さなナイフを見ながら、静かにさせるだけでいいならとても簡単なのに、大変だなあと思った。妹は懸命に赤ん坊を抱きしめている。私はそれを見ながら、ケーキのクリームがついた唇を拭った。

だが、彼女が妹に気付かされるように、世間は合理性を第一の基準などには据えていない。人間はとにかく正常な状態でなければいけないのだ。

叱るのは、「こちら側」の人間だと思っているからなんだ。だから何も問題は起きていないのに「あちら側」にいる姉より、問題だらけでも「こちら側」に姉がいるほうが、妹はずっと嬉しいのだ。そのほうがずっと妹にとって理解可能な、正常な世界なのだ。

そして、終盤に明らかになるように、コンビニ店員という強烈な均質化の陰に隠れていただけで、恵子は実は他の店員からも腫れ物として扱われていた。コンビニのなかで店員という役割がどれほど強度に均質化されようとも、人間の本性は均質化されずに生のままで残されている。普通の呪いは聖域のなかにも入り込んでいた。これは恵子にとって残酷な事実だった。

だが、あるとき白羽という異物の寄生を受け容れたことで周囲は恵子の病気が治ったのだと誤解する。重篤な病人の症状が回復しはじめたように見えた瞬間、それがいかに些細なことでも周囲が飛び上がるほど喜ぶのと似ている。

こうしてはじめて正常側に移れた恵子だが、いつの間にか自分がコンビニ店員以前に「人間のメス」として扱われはじめたことに戸惑う。異常側にいたときの彼女からはまったく見えていなかった、同僚たちのコンビニ店員ではない人間の側面が見え始める。現実を知っていくにつれて、彼女に生きる喜びを与えてくれた教会に流れる音は「不愉快な不協和音」になっていく。

その後信仰を失ってコンビニを辞めた恵子は、生きる基準を失ってしまい、正常な生物らしく、白羽と性交をしたほうがいいのだろうかという疑問を抱く。しかし、白羽の義妹から「あんたらみたいな遺伝子残さないでください」と罵詈雑言を吐かれる。「この義妹はなかなか合理的な物の考え方ができる人だ」と感心してしまう恵子。

どうやら私と白羽さんは、交尾をしないほうが人類にとって合理的らしい。やったことがない性交をするのは不気味で気が進まなかったので少しほっとした。私の遺伝子は、うっかりどこかに残さないように気を付けて寿命まで運んで、ちゃんと死ぬときに処分しよう。そう決意する一方で、途方に暮れてもいた。それは解ったが、そのときまで私は何をして過ごせばいいのだろう。

これほどまでに自分の感情を持たない人間がいるのだろうか。この優生学思想のような激しい意見によっても彼女が心理的にダメージを負っていないからこそ、むしろ読者のこちら側が傷を負う。そんな痛々しい場面だ。

4. 私という人格

人格や性格は遺伝だけではなく、環境によっても形成されていく。恵子の場合、自分の周りにいる同僚の声色や言葉遣い、服装・髪型・小物づかいなどを要素として抽出して、それぞれを組み合わせることによって「私」を作り出している。自分という器に液体を流し込んで「私」が出来上がる。

恵子にとってはとりわけ喋り方のコントロールが重要だ。喋り方というと、我々も意識的に声を落ち着けたり、陽気さや軽やかさを加えたりといった程度の操作をすることはあるが、恵子はなにか言葉を発する前後で誰と誰の喋り方を配合するのかを考えてしまう。今の言い方は店長に近かったな、などと。他人の声のエミュレーターのようになってしまっているのだ。

ロボットが学習できるように、無機質な人間にだって喋り方くらいトレースできる。だが、無断で仕事を辞めた人間に怒ったり、子供をみて子宮を共鳴させたり、恋愛したりすることはできない。もちろん、怒った人の言葉をトレースして怒ったフリだけはできるし、子供を作ろうと思えば白羽と性交するし、恋愛している風に周りは解釈してくれる。

だから、恵子には真似をする機械として生きる道は残されていた。子供さえつくれば、普通の人間の仲間の大きな要件を満たすことになるから。だが、その先も普通らしさを求める攻撃は永遠に止まないだろうし、そもそも劣った人間は子供など作らないでくれという「合理的」な意見に首肯した彼女にこの選択肢はなくなる。

さて我々と彼女との差異は、境界はどこにあるのだろうか。恵子からすれば、みんな誰かの受け売りの癖や仕草をしているのに過ぎず、新しい環境に変われば古い癖や仕草は流れ出して変わってしまっている。そうやって環境によって形成される人格には、完全なオリジナリティなど存在しない。

ルールが分かりづらいだけで結局は均質化されているでしょ、そう言われているようだ。自分というアイデンティティが揺らいでいく。恵子の視点からは、普通の人々は想像力が乏しく、極めて退屈に描かれる。これが普通なのだと自認できれば、平然と生きて異常者を排撃できてしまう……。

18歳のときから、恵子のアイデンティティはコンビニになった。自己のすべてをコンビニに最適化していた恵子がコンビニを棄てるということは、信仰を捨て、生き方を忘れてしまうことだ。体毛を剃って身だしなみを整えることも必要なくなり、髭すら生えてしまう。シャワーも三日に一度。何時に起きたらいいかもわからない。生きる目的がなくなる。

5. 白羽という寄生生物

物語の中盤、白羽がコンビニに雇われる。恵子は白羽が自分と同類であり、しかしコンビニにとっては異物であるとすぐに気がつく。店員たちの声がけの練習を「宗教みたいすっね」と揶揄し、均質化を拒絶し、性格は好戦的で、コンビニで働く人が負け組だとして差別感情を露骨に表す。

コンビニは「強制的に正常化される場所」だ。異物は容赦なく排除される。そう彼女が予想した通り、客の女性にストーカー行為をした彼はすぐにコンビニから異物として排除された。彼女からすれば、異物とされないための処世術は単純明快だった。

「つまり、皆の中にある『普通の人間』という架空の生き物を演じるんです。あのコンビニエンスストアで、全員が『店員』という架空の生き物を演じているのと同じですよ」

白羽という男には他者憎悪と自己卑下が混じっている。自分も童貞で無職というのに、処女だの子宮が老化しているだのと、女性差別の言葉や口汚い罵倒を平然と恵子にぶつける。彼女に世話になっておきながら。どんなに差別的な言葉を言われても怒りの感情が沸かず冷静な恵子からすれば、世界に対する強烈な嫌悪感をいだきながらも、その世界の価値観に拘泥して苦しんでいる彼の生き方がまったく理解できない。

彼は誰にも干渉されたくないといって、恵子に寄生する。恵子は白羽をアパートで飼い、この寄生生物を取り込むことによって、周囲から病気が「治った」ことにされた。これは彼女にとって都合がよかった。恋愛をしているという風に勝手に解釈してもらえるから。

だが、二人の奇妙な関係はすぐに終わりを告げる。 白羽は、人間としての恵子には都合がいいのだが、コンビニ店員としての恵子には「まったく必要ない」のだった。白羽は恵子という寄生先を必要としているが、恵子はコンビニを選ぶ。

不要とされた白羽は恵子を罵ることしかできない。払われた害虫のようだ。宿主から捨てられてしまえば、彼は野垂れ死ぬしかない。恵子はコンビニを信仰しているが、キリスト教の隣人愛のような物語は流れていない。このコンビニ信仰は恵子ただひとりだけのために存在することがわかり、物語は終わる。

彼は恵子が知らなかった普通のルールを熟知していた。どう行動すれば普通になれるか分かっていたのに、その通りの行動ができず(ストーカーもそんな逸脱の一つとして象徴的だ)、落ちこぼれた彼は、早々に口を噤んだ恵子と違って、恨みによって口汚く社会を呪い続ける寄生虫となってしまった。

彼は立場的には恵子の病を治せたはずだった。恵子と形式的に結婚して、子どもをつくればよかった。その治癒を阻害したのは何だろうか。女性蔑視だろうか。単に恵子に魅力がなかったのか。いや、彼の寄生生物としての覚悟が足りなかったのだと思う。自分が生存するためには宿主をうまく操らなければならなかったが、彼からすれば、恵子は宿主としてやはり異常な存在で、手に余ったのかもしれない。

6. 音の器と信仰

子どものころに自分らしい言葉を発しなくなった彼女は、声を持たない器である。「小さな光の箱」であるコンビニの音は、器である彼女に心地よく流れ込む。物語の書き出しも以下のように始まる。

コンビニエンスストアは、音で満ちている。

コンビニは神聖な世界だった。入店者のチャイム音は「教会の鐘の音」に聞こえ、彼女は「光に満ちた箱の中の世界を信じている。」必死の声がけはコンビニへの「祈り」なのだった。

コンビニに音が満ちるのは、空っぽの彼女のなかに音が満ちて音楽が鳴るということだ。眠れない夜にも、コンビニの店内の様子を思い浮かべると、安心して眠れた。異常者として迫害されている彼女が生きていけるのはコンビニの音が自分の身体で鳴っているから。

その音楽は、彼女が正常な側に近づいたせいで「不愉快な不協和音」になってしまう。さらに、恵子がコンビニを辞めて就職活動を始めたとき、肉体は変調をきたし、耳の中でコンビニの音が鳴らなくなってしまう。コンビニの音が身体から消えることは、彼女が寄るべき世界から切断されたことを意味した。一時的に信仰を失った証かもしれない。

しかし、最後のシーンで彼女のもとにまたコンビニの音が流れ込んでくる。いや、今度は音ではなく、声となって。声となったのは彼女が捨てたはずのアイデンティティと一体化したということだ。

 私にコンビニの「声」が流れ込んできた。
 コンビニの中の音の全てが、意味を持って震えていた。その振動が、私の細胞へ直接語りかけ、音楽のように響いているのだった。

世界から切断されていた彼女は、預言者としての自覚を得たかのように人生を自分の手に取り戻す。かつて恵子の言葉は合理的すぎて反感を買い、恐れられた。だが、その身体はこれから先コンビニに奉仕するための道具となる。揺るぎないアイデンティティ、普通であろうとする必要はもうないし、口を噤む必要もなくなった。封印された呪詛の声は、福音の声となって帰ってきたのだから。

結末部は、彼女のなかに音楽が満ちて、共鳴する様を描いて終わる。一曲の宗教音楽を聴いたかの感がある。「私とよく似た明るい声」というのはあくまでも自分自身の内在的な声(本源的自己)ということだろう。これは、神などの外部の声ではない気がする。店の商品の配置などというコンビニのための「合理性」、すなわち自分らしさが、コンビニという教会を媒介して自らに語りかけてくるようになったのだ。

私は生まれたばかりの甥っ子と出会った病院のガラスを思い出していた。ガラスの向こうから、私とよく似た明るい声が響くのが聞こえる。私の細胞全てが、ガラスの向こうで響く音楽に呼応して、皮膚の中で蠢いているのをはっきりと感じていた。

もう誰かの喋り方を真似する必要はない。自分の声をそのまま発すればいい。教会という肉体を媒介して自分自身の内なる声を聞くという、ある種自閉症的な完結。とても美しい。

彼女の人生は充実するが、発展はまったく見込めない。固定化されたのだ。殉教したともいえるかもしれない。

7. 最後に

はじめに書いたように、この作品では信仰・声というのが重要なテーマだと思う。宗教的なモチーフがいろんな箇所に置かれているのは敢えてだと思いたい。

大きな物語がなく、消費的・慾望的に生きている我々の孤独や不安は、コンビニのような極めて世俗的で大衆的な生活のどこかに信仰を見出すことで解決されるのかもしれない、など思ったりもする。

普通とはなにかという表のテーマに従うだけでも楽しく読めるのが、この作品の良さだと思う。この作品はユーモアがあって、笑えるというのも素晴らしい。例えば、からあげ棒のシーンや結末だ。恵子のコンビニへの信仰が狂信として表現されているときに、とくにユーモアが増大する。

これは幸福な物語だというのが私の理解だが、白羽を含む恵子の周囲の正常な人の価値観からすれば、病気を治せなかった女性がコンビニという狭い世界に逃げ込む悲哀の物語でもあるだろう。この手放しで喜べない二面性もこの小説の魅力かもしれない。

日本語のこと: 「に」or「へ」

最近、ある部下のメールをいくつも書き直していてふと気がついたことがある。助詞の「へ」を「に」に直すことがあまりにも多い。もちろん「へ」が適切でないと感じたからこそ修正したわけではあるが、同時に、自分のなかでこれらの違いがはっきりしていないことにも気がついた。

さて、ざっと調べた限り、「へ」は方向を示し、「に」は到達点を示すという。 例えば、

  • 東京行く。
  • 東京行く。

この二つの文を並べたとき、一文目は「東京辺りに」・「東京の方角へと」という広がりのニュアンスがある。フォーカスしているのはある方向へ向かって進行することであって、結句どこに到達するかは判然としていないともいえる。一方の二文目は文字通り「東京都に」入るために行くことがはっきりとしている。

この二者は入れ替え可能だし、日常ではどちらを使ったところで意味内容からして大した問題にもならないが、冒頭のメールでは「へ」ばかりが頻出したために不適切と感じた。彼女はまったく「に」を使わない。「へ」で突っ張るスタイルだ。しかし、「へ」は漠然としている。例えば、

  • 当該書類は〇〇日までに弊所より目黒税務署提出いたします。
  • 当該書類は〇〇日までに弊所より目黒税務署提出いたします。

文単体だけでみると大した差はないかもしれないが、「へ」は提出先が曖昧だ。目黒税務署の方に出すが、風向きによって日本橋税務署に届くかもしれない。というのは言い過ぎとしても、提出先は100%目黒税務署だという確固たる意識が足りないようにみえてしまう。提出先というのは法令などで明確に指定されているのだから、ピンポイントで目的地を指し示す「に」でなければいけないだろう。

これは一例に過ぎないが、「へ」or「に」いずれが相応しいかという問題はここに帰結すると捉えていいと思う。結果を担保すべきプロフェッショナルの文章には「へ」はおよそ不適切であって、あえてぼかしたい特殊な理由でもない限り「に」を使うべき、というのが今のところの僕の考えである。