Literary Machine Nº9

文学と音楽、ロンドンの陸地で溺れる税理士

上司ガチャにハズレた部下を救えなかった話

部下の退職が決まった。上司ガチャのハズレによって、職場に適応できなかった。

彼女は私の直接の部下ではないから、私はガチャのハズレには含まれていないと宣言しておきたいところである。しかし適応は、職場環境からの絶えざるフィードバックに耐え切れるかという問題だ。とすれば、私もこの職場にいる以上ハズレの一味たるを免れないであろう。おそらく、この問題に対処するに当たって重要な出発点は、職場の責任を認めることだ。そして、自分の無力さをも。

さて、あまり詳細に書きすぎると差し支えるから、この上司と部下の間で起こった出来事について適宜ぼかして書く。仮に上司を田中、部下をマキコとする。

まず、憔悴したマキコさん当人からしか事情を聴いていない点は容赦されたい。味方が誰もいない(と本人が感じていた)ため、僕は客観・中立的な立場よりはマキコさんをサポートする役割に徹するべきと判断した。また、この問題には多少なりとも義憤を感じているから、当初よりもかなり気分が落ち着いたとはいえ、叙述には強いバイアスがかかっていることは否定できない。

ヒアリング内容等からの構成

マキコさんが転職してきたのはこの一年内である。マキコさんの成長と人事評価に責任を有するキャリアコーチには、田中さんが任命された。田中さんとマキコさんは業務のアサインメントで一緒になることも多く、この組み合わせは全く自然なものだった。

しかし、マキコさんの入社早々に二人の関係に亀裂が入ることになる。入社月の初回1on1で二人が個室で話していると、特定の共通クライアントに関する話題になった。田中さんはこの業務についてマキコさんに期待するところが大きかったから、業務に必要なテクニカルスキルへと話題が派生した。次第にこれこれの条項は知っているか、あれはどうだという審問の様相を呈してきた。マキコさんが困惑しながら回答していると、田中さんはしびれを切らしてこう漏らした。

「こんなことも知らないで〇〇の案件大丈夫!?」

「そういわれても前提の情報が足りないので答えられません」

さすがに堪えきれず、マキコさんが少し言い返すような態度を取ったところ、田中さんは激高してしまった。

マキコさんは、まさかそれほどの感情的な叱責を浴びるとは思っていなかったから、まずは驚愕した。それから、毎月の1on1で密室に二人きりになるのが怖いと感じるようになった。ある日、いつもの通り苦痛の1on1が終わって個室を出ると、近くにいた他部署の人が話しかけてきた。何を言っているかは聞こえなかったものの、激しい話し声で叱責されているようで心配になったので……とのことだった。

マキコさんは、初回に余計な反論をしたことが田中さんを白熱させた原因だったのではないかと考えて、1on1で何を質問されてもできる限り沈黙を貫くようにしてみた。そうすると、言い合いに発展することはなくなったが、「そんな黙っているようではダメ」というような指摘など、別のやり方でチクチク刺してくる。田中さんがマキコさんに関してネガティブな指摘をした後に、誰とは伝えず「これは他の人も言っていたよ」と付け加えるようなこともあった。マキコさんがまだ知りもしない他の同僚や上司達に対する不満を聞かされることもあった。

なお、田中さんには業務関連の連絡をする際に、電話・チャット・メール等をふんだんに駆使して部下を執拗に追いかける習性があるのだが、業務はそもそも当然の義務だから、これはまだ耐えられる。それでも、田中さんからの連絡が来る夢を見て深夜に焦って起きるなどプライベートの時間も浸食されてしまった。そして、精神的な攻撃に晒される1on1の時間はひたすら地獄のように辛かった。

マキコさんは社内で本来最も信頼すべき人物に傷つけられて、他の人達が自分のことを悪く言っているかもしれないという疑心暗鬼を生じて、孤立無援に陥った。

転職から一か月もしないうちに彼女の頭には、退職という単語が浮かんでいた。

相談を受けてから

僕がこれらの事情を聞くことになった経緯は単なる偶然だった。業務のためのミーティングをしていたときに明らかにマキコさんの様子がおかしかったため、少しずつ事情を聞いてみたところ、直前に田中さんから1on1でひどいことを言われて泣いてしまったらしく、感情の制御ができていなかった。即座に対応しなければ最悪の事態に至るほどの緊急性はなさそうに見えたが、強烈な不安状態にあることは分かった。田中さんへの直談判どころか、大事になるのを避けたがっていたので、「今は誰も信じられない状態だと思うので、あなたが良いと言わない限り、この話は誰にも伝えない」と言って、その後も何度か状況を改善するための話し合いを持つことになった。

日頃田中さんは周囲にも「マキコさんがうちに来てくれて助かる」というようなことを漏らしていたから、部下への期待値が高すぎて指導が過熱したケースではないかと思われた。僕がまだ本件について知る前に、同僚達と田中さんを話題にすることがあったが、部下を愛して育成にも熱心であることと、育成が他に類を見ないほど下手で不器用なことについて皆の意見が一致した。そもそも、過去にも新人の女性を数人退職させてきたという「伝説」がある人だった……。それでも、最近は大分落ち着いてきたという評判だったのだ。

口外を避けなければならなかったから、部門長に相談することもできない。そこで、事を荒立てずに何とか田中さんとの1on1を平和なものにできないかという穏当な対応策を考えてみて、一応の方向性が決まった。その翌月くらいに話しかけて様子を訊くと、「平気です」と笑う。あまりに素っ気ない反応で拍子抜けした*1。後で分かったことだが、とある第三者から釘を刺されて周囲にこれ以上相談できないという心理状況になっていたようだ。

しかし、僕は多少は状況が改善されたのだろうと納得し、その頃は既に繁忙期に突入していたこともあって、こまめに彼女を追跡するようなことはしなかった。そのうちに一か月半ほど経って、再びマキコさんからの相談を受けたときには、退職したいが田中さんさんには退職の話などできようもないから、サポートしてくれということだった。

ここに至って彼女の退職の意思を部門長に伝えつつ、部門長とも一緒に何度か面談をしたが、その決断は揺るがなかった。本人が振り返って曰く、コーチとの相性が悪く、職場に適応できなかったのが原因だと。他者を責めないのは「大人」な考え方だとも思うが、今は冷静な判断ができていないのかもしれない。自分を責めるような発想だと退職後の回復にも時間がかかるのではないかなどと、素人ながら想像する。

僕は何度か面談をしながら、彼女を救ける術がないだろうかと思案したわけだが、正直最適解の行動を取れていたとは思われず、未だに暗闇に立ち尽くしている。書籍やネットを当ったところ、適応障害等の医師の診断が前提になっているものか、診断が出てからどう行動すべきかというアドバイスが多かった。心を負傷した部下に対して、前線でどうやって応急処置を施すかという具体的な指針にはなりそうになかった。だが、この種の問題はどこにでもあるだろうから、きっと参考となる情報もあるはずで、僕の探し方が悪かったに違いない。

僕のなかで整理がしきれておらず、ここから先の反省はまだ完了していない。今思っていることや感じることをラフな箇条書きにしておく。

  • 新入社員や転職者は、彼らの存在を承認しながら育成しないといけない。コーチは技術的なトレーニングをしたくとも我慢して、まず彼らの心理的安全性を確保し、互いに信頼関係を築くことを重視すべき
  • 疑心暗鬼になっているマキコさんに対して誰にも口外しないと約束し、それを守った点は彼女の安心材料になったとは思う。ただし、そのために上長を巻き込んだ改善策を図れなかったので、正解だったかは分からない
  • 多分に主観が絡むトピックだし、一面的な話しか聞いていないので、マキコさんにも何かしらの落ち度があった可能性は十分にある。上記が被害妄想ということもないとはいえない。この点はマキコさんの退職後に田中さんに尋ねる機会があろう
  • この手の理不尽が起こったときには、「被害者」に寄り添いつつ、この理不尽さを問題視する態度を示すことが重要だが、我々は精神科医などのプロフェッショナルではないから、メンタルが関わる問題には入り込みすぎてもいけないし、現場だけで解決できるものではない
  • とはいえ職場環境に問題がある場合には、現場で対応した方が被害を抑えられるケースが多いのも事実だろう。この手の問題を放置又は容認している職場全体、とりわけManager(管理職)以上に責任がある(すなわち、僕にも責任がある)
  • (会社や医師により)パワハラだとか適応障害だと認定されていない今回のようなケースでは、程度の差こそあれ心的外傷を受けた人にどう応対してサポートするかということを考えるアプローチが良いのではないか
  • 上司と部下の問題の場合、上司の立場・業績・役割・能力が評価されてしまい問題解決が難しくなる。これに対してまだパフォーマンスを発揮できていない新人は常に過小評価されて分が悪い。「この人が20年いてくれたらあの人を超える貢献をしてくれるだろうから守らなくては」というような比較衡量は期待できない。現時点での貢献度で測定されてしまう。そしてメンタルの強さへの評価も決定的な重しとして、この秤に載せられる

*1:そもそもこの暴露を受ける前から、マキコさんとのコミュニケーションには、どこか核心に辿りつけないような、本当に内容を理解して応答しているのか不安になるような謎の違和感があったが、今振り返ると防御反応のような硬直性のために会話がぎこちなくなっていたのだろうと思う。