Literary Machine Nº9

文学と音楽、ロンドンの陸地で溺れる税理士

4 May 2023,

トー横

少し前に話題になった歌舞伎町のジェンダーレストイレが今やパパ活に使われているというニュースを見て、不謹慎ながら笑ってしまった。人間というのはたくましい。とりわけトー横キッズと呼ばれる若者たちの生態はなかなかタフでことごとくrawな。

道傍を歩いているとアスファルトの隙間に雑草が美しい花を咲かせていて「こんなところによく」と感じ入ることがあるけれども、新宿のあんなところに少年少女の暴力と売春の枝葉が過激に伸びて小さなスラムが自生するに至ったというのは、何とも奇妙だ。

トランス

最近トランスの人たちのニュースが国内外で話題だが、丁度こんな動画を観た。動画自体は2年前のもので、40分近くある。要旨は、哲学Youtuberとして7年活動してきた男性がずっとトランスだったということをカムアウトする動画だ。 www.youtube.com

内容はさておき、以下の台詞が印象的だった。

...remembering something is an act of interpretation. And that makes me wonder if you remembered things from your life, what if your interpretation of that thing has changed? Would that make you a different person?

日本語訳:
何かを思い出すということは、解釈するという行為だ。とすると、もしあなたが自分の人生のものごとを何か思い出したときに、そのものごとに対する解釈が変わっていたとしたら。あなたは別人になってしまうのか。

これは発言のコンテクストを踏まえると、これまで男性として生きて経験してきたものごとに対する解釈が女性としての見方に変わっていたらという問題提起だと思う。

過去は自由に解釈の対象となる。シナプスが頼りないせいで記憶は徐々にフェードしていくが、記憶の一義的な参照先はあくまでも過去の事実だ。しかし事実には評価や解釈が手垢のようにこびりついて、いつのまにか記憶と合一化して、記憶されるべきものへと還元されている。僕らが昨日の自分、いや究極的には一秒前の自分、と同じ人間だと思うためにはこの合成記憶が欠かせない。だからこそ、この合成記憶は私が唯一無二の私である証跡なのだ。しかし、久しぶりに記憶を参照したときの解釈がまるで違うものになってしまっていたら、アイデンティティの足場は揺らいでしまう……。

過去と未来の狭間

さて徳冨蘆花の『謀叛論』に収録されている「眼を開け」。明治39年に青山学院で蘆花が行った講演だから、明治44年の「謀叛論」以前の話だ。 shivalak.hatenablog.com

蘆花が引用する詩がある。陳子昂という唐代の詩人の「幽州台に登る歌」から、「前に古人を見ず後に来者を見ず独り愴然として涙下る」と引いている。この詩人は18歳まで無頼の徒だったのが発奮して進士にまでなったという。すなわち、トー横キッズが心を入れ替えて国家公務員になったようなものだな。詩の原文は、

登幽州臺歌
前不見古人,後不見來者。
念天地之悠悠,獨愴然而涕下。

私は過去の賢者を見ることができず、将来の英雄を見ることもできない。過去や未来の人からもまた、私は見えない。私に見えるのは、すべて今のみ。壇上に登って遠くを眺めても、広大な宇宙と空と大地しか見えない。どうしても寂しくて寂しくて仕方がない。ぴえん。

蘆花はこの詩から発進して、詩人のメランコリーと孤独に共感しながらも「思うに我々はトモすると過去とは夢のごときものであるかのように考えますけれども、いずくんぞ知らん今日厳然として生ているのでございます」と云う。そう、上に見たように人は己の過去を解釈し続けることができるけれども、何も自己の過去に限らねばならない法はない。

「静かに顧みて吾胸中に古人ありと思うならば、我もまた将来に人の胸中に生くべきものではありますまいか」

この力技の展開は浪漫があって心を拍たれた。

おれが過去の人々に想いを到すとき、人々は現世において再生され、その声を聴くことができる。そうして、いまこの胸中に人々が生きていることは、おれもまたまだ見ぬ人の胸中に生きうることを意味するのだ。

そう考えてみると、我々は「実に長命」なのだ。物理的な生命は長くて百歳だが、なぜそんなものに拘泥するのか、というような蘆花の声が聴こえてくる。過去と未来から切り離され、その狭間で、参照先もなく参照元ともならない絶望を胸にいだき、かぼそい刹那の綱渡りをする孤独な人々を、蘆花は激励しているのだ。だが、その蘆花自身も孤独な人であったに違いない。