Literary Machine Nº9

文学と音楽、ロンドンの陸地で溺れる税理士

ロンドン到着の日のこと

東京を出発し、ロンドンに到着してからもう1ヶ月が経ってしまった。 色々アウトプットしたいと思いながらも、初めて暮らす異国で気もそぞろがちに、いつの間に時間がだいぶ過ぎた。

1. フライト

7月2日は梅雨の朝だった。そんな日に僕は大量の荷物を全身で引きずって羽田空港へ向かう。 大量というのは、背中にバックパック、テナー・サックスと電子サックスを左右の肩にかけて、でかいスーツケースを一つ。ちんどん屋のなりそこないだ。最寄り駅で、反対側のホームに移動するために階段を上り降りしただけで心がバキバキに折れた。この多荷物には今に至るまで悩まされている。

見送りに来てくれた家族と最後の会話を交わして、超過重量のために1万円をJALに支払い、ロンドンへの直通便に乗り込んだ。CAさんに「楽器ですか?」ときかれて得意げに「サックスです」と答えたときだけ重い荷物を運んできてよかったと思えた。その人はたしかフルートを演奏するとか。幸いなことにプレミアムエコノミーだったのと席が空席だらけで、すぐ後ろの親子連れを除いて周囲15席くらいに誰もいないという快適な空間だった。これなら12時間のフライトも窮屈にはならない。しかも僕は事前に徹夜をして眠気MAXだったので、あっという間に着いてしまうさ。

ついに単身で海外に飛び出すこととなって、感極まったのだろう、フライトの間中メモとペンを座右に置いて、目が覚めるたびに、何か思いつくことを書き散らした。あとから読み返すと色々なエモみが去来していて面白い。まずは、親父が癌で病床にいたときに「最後は家族だ、愛だ」と云っていたのを思い出した。死の淵とか酩酊して前後不覚でないとそんな台詞は吐けないが、今もって尊いと思う。死という「今生の別れ」も洋行も、別れの場であって、そこに駆けつけてくれる人は家族であれ友達であれありがたい。それだけに別れのさみしさもひとしお。

ランチを食べたら少し楽しい気分になった。Ubereatsばかりだった僕には機内食のほうが百倍健康的で好い。Promising Young Womanという映画を観る。とある事件を機に医学部をドロップアウトした女子の復讐譚。タランティーノっぽいレトロなスタイリッシュさを狙っているような。冒頭やラストの淫乱女感と純粋な復讐の動機とのギャップに惹き込まれる。

映画自体は面白かったが、終わった途端に虚無感に襲われた。今はドバイ辺りだ。何でおれはこんなばかげたことをやっているのだろうと。日本の税務の知識や経験がそのまま活かせない、武器のない海外にわざわざ飛び込んでいくなんて、よく言えば仕切り直しだが、身につけたものをうっちゃるようで愚かだ。とはいえ、しょせんおれなんぞは事務所から出向で短期間派遣されるだけだ。文字通り裸一貫で海外に挑んで一旗揚げようという人はすさまじい。身一つで海外に飛び立った人々やこれから飛び立とうとする人々はその勇気だけでも尊敬に値する。

とまぁそんなことを考えているうちに今度は冒険的なポジティブな感情が湧いてきて、ようやく心が均衡を取り戻した。Judas and the Black Messiahという映画を観る。Get Outに出ていた二人だ。The Black Messiahの演説などの熱演も惹き込まれたが、どちらかというと弱くて人間味のあるJudasの方に感情移入した。映画などで描かれる偉人像は則天去私のような超然とした精神世界に到達してしまっていて、それはそれで魅力だし、ブラック・ジーザスなので神々しくあるのが当然ともいえるけれども……。どこかに弱さがあってほしいと思うのかもしれない。ユダを排除しなかったことはキリストの強さだろうか。

いま振り返ってみると2つの映画はどちらもシリアスな内容で、このときはもっと楽しい映画を観るべきだったと後悔。

いつの間にかアムステルダムを超えていて、降下のアナウンス。時計をロンドンに合わせる。梅雨の東京を遠く離れて旅の幕開けを知らせるつゆ払いの儀式。これが楽しい。無事に着陸した機内から眺めると、曇りがちだが晴れ空のヒースロー空港が待っていた。

Arrivalsで長蛇の行列。1時間ほど待たされたか。僕の前に並んでいたナイジェリア人の老紳士に「妻が来るんだが入れていいか」と訊かれてNo problem.と答えたのが、英国において発した記念すべき最初の英語である。Passenger Locator FormやPCR陰性証明書などを準備していたが、日本は優良国の一つらしく、パスポートを機械にかざすだけで入国できた。あっけない。みんな電話しているなあ、電話が好きなんだなあという印象。

2. ヒースロー空港から滞在先へ

1万円以上するタクシーで行くのをケチって、Oyster Cardを購入して地下鉄で向かうことに。覚えたばかりの単語をピカデリーラインで見つけて喜ぶ。"retch"というのは吐き気を催すという意味。

その後乗り換えのときに階段を昇降しなくてはならず、タクシーにすればよかったと悔いたがすでに遅い。 なんでエレベーターやエスカレーターを完備しないんだ!と嘆いていたら、後ろから女の子が「持ちますねっ」みたいなスーパー爽やかさで手伝ってくれました。女の子に助けてもらうのはなんだか情けない気もするが、これをかついでちんどん屋をやっていたから仕方がない。

出向先(UK)の事務所に用意してもらった宿に着いた。いくつかの選択肢からとてもおしゃれで快適そうなホテルを選んだのだが、正解だった。ホテルの部屋にキッチンが付いている。部屋の窓からはテムズ川が見えた。

爽快な展望だなと思う一方、水、汚えなというのが感想だった。 その昔、「隅田川の水はテムズ川に通ず」と云った人がいるらしいが、道理で納得した。隅田川の汚さがここにたどり着いたのか、テムズ川のせいで隅田川が濁っているのか、互いに汚れを高めあっているのかは知らない。

3. 事件そして暗い部屋……

そんなことを考えながらiPadを充電しようとしたら、「バチバチ」と猛烈な音がした。すぐ焦げ臭い匂いがしたのでまずいと思ってコンセントから抜く。実は日本から持ってきたタコ足ケーブルを変換プラグをかまして使ったのが悪かったらしい。その後別のコンセントで充電しようとしたが充電される気配がない。おかしい。iPadがおかしいのか、なんだろう……。あれ、明かりもつかないぞ。 ああ……ブレーカーだ。

ブレーカーが落ちていることをフロントの女性に伝えに行く。しかし何ていえばいいかわからない。スマホローミングを切っているし、ブレーカーとともに部屋のWiFiも死んでいるから、調べられなかった。とりあえずジャブ代わりに、"The breaker is down."と言ってみる。出川レベルの直訳なのに、出川には到底及ばない発想力。

"What????"

そりゃそうだよな。ちょっと試しに言ってみただけだから。女性の後ろにいたにーちゃんも、素っ頓狂な奴がいると思って参戦してきた。一言では伝えられなかったものの、充電しようとしたらboomだぜ!みたいな経緯を説明したら分かってくれたけれど、いままで何を勉強してきたのだろうという気にもなった。後で調べたらこう云うべきだったらしい。

The breaker (has) tripped.

しかし、スタッフと一緒に部屋に戻ったが、肝心のブレーカーが見当たらない。挙げ句の果てに「メンテナンスマネージャーが週明けまで来ないから分からない。空いている部屋があるからそこで良ければ移る?」と。外は薄暗くなってきているし、断る余地はない。

そして移動した先は、暗い。最初の部屋は縦長だったが、こちらは真四角なので間取りはこちらのほうが断然好いが、暗すぎる。窓はあるが、細かい格子があって光が全然入り込まない。テムズ川は見ようと思えば見えるが、この模様があっては景色を楽しめたものではない。きっとテムズ川を汚いと罵倒したバチがあたったんだろうな。こうして、朝っぱらから夕方までホテルの前からテムズ川沿いにジョギングで抜けて行く人々を部屋からさもしく眺める日々が始まった。